自由タイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 08:59 UTC 版)
「プリーディー・パノムヨン」の記事における「自由タイ」の解説
詳細は「タイ王国進駐」および「自由タイ運動」を参照 1941年12月8日、太平洋戦争の一環として大日本帝国が、東南アジアへの進攻を開始した。タイへの侵攻は、陸からはフランス領インドシナから国境を越えたものと、又、海上からの上陸もあった。タイ政府は、最初は抵抗したものの、日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定を締結し、マレー戦争等の連合国攻撃のために、国内を通過し、軍事基地を使用することにしぶしぶ合意した。 翌年1月、ピブン首相は、英国と米国に対して宣戦を布告した。当時、プリーディーは、3人いる摂政(当時、国王はスイスに留学中であった)の内の一人として事実上降格されていたが、行方をくらまして署名しなかった。この行為自体は後にタイの宣戦布告が無効であるという主張の根拠となる。 プリーディーはタイで反日地下組織である、自由タイ運動『セリ・タイ』のネットワークを築く。コードネーム「ルース」として、同盟国や英米において活動する抗日戦線と連絡を取り合った。戦争が進行し日本の敗色が濃くなると、タイ国民の不満は拡大し、1944年ピブンは首相を辞任する。 自由タイの一員でもある文民政治家クアン・アパイウォンが、「日本人をごまかす能力」を買われ首相に就任、占領日本軍と良好な関係を保ちつつ、プリーディーとともに自由タイ運動を背後で支援した。最終的に日本が降伏すると、自由タイは、速やかに主導権を握り、「戦前の状態への回復」を指向し、摂政であるプリーディーは、「宣戦布告は不法で無効である」と主張し、ピブンが日本との間で結んだ協定を全て拒絶した。
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