自由フランスとレジスタンス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
「フランスの歴史」の記事における「自由フランスとレジスタンス」の解説
詳細は「自由フランス」を参照 ドイツ軍へのレジスタンスは、ドイツ軍占領地域での勢力、ヴィシー国内での非占領地域の勢力、そしてド・ゴールが指導する国外勢力の3つに分けられる。ド・ゴールはロンドンなどを拠点にBBC放送を抵抗を呼びかけたが、初期の段階においては、ペタンの名声などでかき消され、フランス国内においてはほとんどそうした抵抗の呼びかけへの反響はなかった。また初期の自由フランスは大陸からの脱出兵による数千人ほどの規模しかなく、組織としても、イギリスのチャーチル首相や、アメリカのルーズヴェルト大統領の反応も曖昧であった。初期のレジスタンス組織では非占領地域よりも占領地域の方が早く、当初は地下組織での出版物の刊行から始まった。1940年8月には赤道アフリカやチャドカメルーンなどのフランス領中央アフリカ地域を自由フランス側に立たせることに成功する。フランス国内では1943年春頃より、ドイツの労働力徴発に反発した若者によるレジスタンス組織「マキ」が武装抵抗を始め、5月にはド・ゴール主導による全国統一組織「レジスタンス国民会議」が結成された。一方でこうしたレジスタンスに対して支配をしていたドイツはドイツ兵一人の殺害につき一定数のフランス人やユダヤ人捕虜の人質を殺害するといった報復措置を取った。これらは戦況が悪化するにつれ、より熾烈なものになっていた。
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