第2次ピブーン内閣
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「プレーク・ピブーンソンクラーム」の記事における「第2次ピブーン内閣」の解説
1942年3月6日 - 1944年8月1日 1942年4月ごろ、後に首相になるセーニー・プラーモートは祖国が日本に「占領」されているのを見て、自由タイという抗日運動をアメリカ留学仲間と始めた。これは後にイギリスのタイ人留学グループにまでおよび英国では自由タイのメンバーは英国兵として受け入れられ、特殊訓練が施された。またピブーンソンクラーム内閣の閣僚で国内にいたルワン・プラディットマヌータム(本名プリーディー・パノムヨン、後の首相)までも参加していた。むろんピブーンソンクラームはこれに気が付いていたが、黙認し、一方で日本に対しては自由タイなどないかのように振る舞っていた。 このころまでに日本の行為はタイの社会を混乱させるようになった。日本は日本国内の慢性的な食糧不足を改善するために、タイ米を日本に送ろうとし、バーツを円と等価に切り下げた。またタイ政府から大量の軍費を借り入れ、それを、戦時で物流の乏しかったタイの市場で大量に消費したが、これはタイ国内で大きなインフレを生じ、農村経済に打撃を与えた。同盟国であったため泰緬鉄道の建設現場以外ではあからさまな虐待が行われなかったものの、店の商品をくすねたりと言うようなことも行われ、官吏・一般人を問わず素行の悪い一部の者により、日本は大いに評判を下げていた。現在、タイにある日本人にたいする蔑称(ユンピー「ニポ公」やアイティア「ちび」)もこのころ生まれたと考えられている。 1943年2月13日敗戦の色が濃くなってきたため、ピブーンソンクラームは辞表をラーマ8世(アーナンタ・マヒドン)に提出する。2日後気を取り直して辞表を撤回するが、10月20日には自由タイのメンバーであったディレーク・チャイヤナームを外相に就任させた。このとき、ピブーンソンクラームはすでに、敗戦に向けてある程度腹をくくっていたようである。 1943年2月6日、ピブーンソンクラームは首都が壊滅したときのことを考えて、日本軍の知らないところでペッチャブーン仏教都市建設計画を発表。7月4日には東條英機がマレーの4州とビルマ(ミャンマー)のモンパン州、ケントン州を手みやげにピブーンソンクラームを訪れたが、ピブーンソンクラームはあまり興味を示さず、大東亜会議には日本から要求されたものの病気であると称してラーマ4世(モンクット)の孫であるワンワイタヤーコーン親王を代理として派遣するに留まった。 翌年7月22日、これまでのピブーンソンクラームの独裁ぶりに反感を持つ者のたまり場と化していた人民代表院によってペッチャブーン仏教都市計画が否決され、ついでに不信任案を突きつけた。ピブーンソンクラームは2日後自ら辞表を提出し、首相を退いた。
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