第2次ピブーン内閣とは? わかりやすく解説

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第2次ピブーン内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 06:31 UTC 版)

プレーク・ピブーンソンクラーム」の記事における「第2次ピブーン内閣」の解説

1942年3月6日 - 1944年8月1日 1942年4月ごろ、後に首相になるセーニー・プラーモート祖国日本に「占領」されているのを見て自由タイという抗日運動アメリカ留学仲間始めた。これは後にイギリスタイ人留学グループにまでおよび英国では自由タイメンバー英国兵として受け入れられ特殊訓練施された。またピブーンソンクラーム内閣閣僚国内にいたルワン・プラディットマヌータム本名プリーディー・パノムヨン、後の首相)までも参加していた。むろんピブーンソンクラームはこれに気が付いていたが、黙認し一方で日本に対して自由タイなどないかのように振る舞っていた。 このころまでに日本行為タイ社会混乱させるようになった日本日本国内慢性的な食糧不足改善するために、タイ米日本送ろうとし、バーツを円と等価切り下げた。またタイ政府から大量軍費借り入れ、それを、戦時物流乏しかったタイ市場大量に消費したが、これはタイ国内で大きなインフレ生じ農村経済打撃与えた同盟国であったため泰緬鉄道建設現場以外ではあからさまな虐待が行われなかったものの、店の商品くすねたと言うようなことも行われ官吏一般人問わず素行の悪い一部の者により、日本大い評判下げていた。現在、タイある日本人にたいする蔑称(ユンピー「ニポ公」やアイティア「ちび」)もこのころ生まれた考えられている。 1943年2月13日敗戦の色が濃くなってきたため、ピブーンソンクラーム辞表ラーマ8世アーナンタ・マヒドン)に提出する2日後気を取り直して辞表撤回するが、10月20日には自由タイメンバーであったディレーク・チャイヤナームを外相就任させた。このとき、ピブーンソンクラームはすでに、敗戦向けてある程度腹をくくっていたようである。 1943年2月6日ピブーンソンクラーム首都壊滅したときのことを考えて日本軍知らないところでペッチャブーン仏教都市建設計画発表7月4日には東條英機マレーの4州とビルマミャンマー)のモンパン州、ケントン州を手みやげピブーンソンクラーム訪れたが、ピブーンソンクラームはあまり興味示さず大東亜会議には日本から要求されたものの病気であると称してラーマ4世モンクット)の孫であるワンワイタヤーコーン親王代理として派遣するに留まった。 翌年7月22日これまでのピブーンソンクラーム独裁ぶりに反感を持つ者のたまり場化していた人民代表院によってペッチャブーン仏教都市計画否決されついでに不信任案突きつけた。ピブーンソンクラーム2日後自ら辞表提出し首相退いた

※この「第2次ピブーン内閣」の解説は、「プレーク・ピブーンソンクラーム」の解説の一部です。
「第2次ピブーン内閣」を含む「プレーク・ピブーンソンクラーム」の記事については、「プレーク・ピブーンソンクラーム」の概要を参照ください。

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