第2次パホン伯内閣
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1933年12月16日 - 1934年9月13日 1933年12月25日、プリーディーが共産主義者であるという非難があった中で、反共産を自称しているパホン伯はプリーディーが共産主義者でないことを証明するため特別委員会を設置した。これは翌年3月10日にプリーディーは共産主義者でないということで結論が出た。むろんこれはプリーディーが共産主義者であるという疑惑を払拭した物ではなかったが、これによりパホン伯はプリーディー等文民派を抱え込むことに成功した。 そのころラーマ7世は国王の権威が衰えたのを見て、国外へ逃げる用意をしていた。法律は国王の署名をもって有効となるが、国外に居ることでパホン伯の政府に負担を与え、王族を無視したその政治に密かに抵抗しようと試みたのである。国王は1月12日、摂政ナリッサラーヌワッティウォン親王をバンコクに置いて妃と共に、日本人企業家、飯塚茂の手配の元バンコクを後にする。後述するがこれはパホン伯政権にとって大きな痛手となった。 1934年9月には国際ゴム制限条約批准が国会で否決されパホン伯内閣は総辞職した。これにより第3次パホン伯内閣が成立する。
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