第1次パホン伯内閣
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「プラヤー・パホンポンパユハセーナー」の記事における「第1次パホン伯内閣」の解説
1933年6月21日 - 1933年12月16日 パホン伯はクーデターの当日に、日本大使館に駐在している公使を呼んでいる。これは、当時のタイではイギリス・フランスの勢力が前マノーパコーン側と通じていたからであり、日本との関係を強化してこれを打開しようと言うという意図があったからである。この時が日本のタイの政治に直接の影響を及ぼした最初である。この後、1935年あたりまでパホン伯は日本との関係を強化しようとした。クーデターの午後にはパホン伯新政府は外国人企業家を対象に「新政府は共産主義を容認しない」という旨の発言を行い、反共政権だったマノーパコーンを打倒したことに伴うイメージダウンを払拭しようとした。 その後パホン伯は6月24日までに辞表受理以来失ったすべての地位を回復している。29日には革命の同志であるプリーディーを呼び戻し、閣僚に任命した。この時の閣僚編成では、マノーパコーン派が軒並み地位を失った。この時、地位を失ったマノーパコーン派のメンツが集まり、旧体制の高官で新体制に不満のあったボーウォーラデート親王をたてて政府に対して反乱を起こした(ボーウォーラデートの乱)。これはリーダーが王族であったためバンコクの反パホン伯=ピブーンソンクラーム勢力にあった軍が動かずドーンムアンにおける政府軍との結成で破れた。これにより政敵の居なくなったパホン伯とピブーンソンクラームはその勢力を大きくした。 11月9日には選挙が行われ、12月9日には議員が任命される。これにより12月16日に第2次パホン伯内閣が成立した。
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