第1次ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 10:12 UTC 版)
1966年(昭和41年)、高校在学中の15歳の時に、ミノルフォンレコード(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)より遠藤実作詞・作曲のシングル「こまっちゃうナ」で歌手デビュー。同曲が大ヒットとなり、国民的アイドルとして全国に知られるようになった。翌年、『第18回NHK紅白歌合戦』でNHK紅白歌合戦初出場を果たした。当時は舌っ足らずな口調を売りにした、いわゆる「可愛い子ちゃん歌手」であった。 しかし、デビュー曲「こまっちゃうナ」が大ヒットした後はヒットに恵まれず、人気は低迷する。
※この「第1次ブーム」の解説は、「山本リンダ」の解説の一部です。
「第1次ブーム」を含む「山本リンダ」の記事については、「山本リンダ」の概要を参照ください。
第1次ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 01:17 UTC 版)
1回目は1990年代の前半、ポスト・ティラミスにタピオカココナッツミルクが浮上したときだった。 日本では1990年代後半ごろから快可立 (Quickly) やEasyWayなど台湾チェーン店が進出してきた事によりタピオカティーの知名度が一気に高まった。
※この「第1次ブーム」の解説は、「タピオカティー」の解説の一部です。
「第1次ブーム」を含む「タピオカティー」の記事については、「タピオカティー」の概要を参照ください。
第1次ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 01:24 UTC 版)
1966年8月、デビュー曲「恋の終列車 (Last Train to Clarksville)」をリリース。同年9月12日、NBC系列で『ザ・モンキーズ・ショー』が始まる。翌10月に発売されたデビューアルバム『恋の終列車 (The Monkees)』は、テレビとの相乗効果により500万枚を売上げるヒットとなった。以降、4人はレコーディングとテレビシリーズの撮影に追われる日々となる。 1967年1月、第2弾アルバム『アイム・ア・ビリーバー (More Of The Monkees)』をリリース。この頃から制作者サイドとメンバー間の軋轢が目立つようになる。当初、2作目以降はメンバー自身もアルバム制作に関われるという話であったが、モンキーズの音楽部門の責任者であるドン・カーシュナーはこれを一切認めず、ファーストアルバムまでの時点に収録が終わっていながら未発表になっていた自身の音楽出版社所属の楽曲を使用し、スタジオミュージシャンのバッキングトラックにボーカルを乗せた音源を使用して制作したアルバムをメンバーの知らないうちに発売した。 さらにカーシュナーは、ニール・ダイアモンドの提供曲『恋はちょっぴり (A Little Bit me, A little Bit you)』を3枚目のシングルとして発売することにしていたが、B面に使用する曲を当初予定していたネスミス作詞・作曲の「どこかで知った娘 (The girl I knew somewhere)」ではなくジェフ・バリーの手による「シー・ハングズ・アウト (She hangs out)」に無断で差し替えて発表する。この暴挙にネスミスが激怒し、当初予定通りの「恋はちょっぴり/どこかで知った娘」のシングル盤を独自に制作。「これこそが本物のサード・シングルだ」として記者会見を開き、マスメディアを巻き込んだクーデターを決行した。
※この「第1次ブーム」の解説は、「モンキーズ」の解説の一部です。
「第1次ブーム」を含む「モンキーズ」の記事については、「モンキーズ」の概要を参照ください。
- 第1次ブームのページへのリンク