第1次ボールドウィン内閣(1923年-1924年)
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「スタンリー・ボールドウィン」の記事における「第1次ボールドウィン内閣(1923年-1924年)」の解説
1923年5月22日に国王に召集されて組閣の大命を受けた。 1923年は戦間期を通じて就職できない労働人口10%(「手におえない100万人」と呼ばれた)が大量に発生した時期だった。ボールドウィンは失業者救済の核心部分は英国産業の保護にあると信じた。もともとボールドウィンは1903年以来ジョゼフ・チェンバレンの帝国特恵関税制度(英語版)(保護貿易的な関税改革論)の支持者だった。 ボールドウィンは11月2日にマンチェスターの自由貿易ホール(英語版)で次の6条件による帝国特恵関税制度を提唱した。「(1)失業の増大の原因となっている外国製品の輸入を特に考慮して外国製品に輸入関税を課すこと、(2)自治領に特恵関税を与えること、(3)輸入小麦または輸入食肉には関税を課さないこと、(4)農業振興のために最善の方法を検討すること、(5)老齢、疾病、失業の保険を充実すること、(6)『我が版図、我が帝国』を発展させること」である。 ボールドウィンは当初これのために解散総選挙する意思はなかったが、ロイド・ジョージが保護貿易に転向し、かつての大連立支持者オースティン・チェンバレンらと「中央党」を形成するという噂が流れた。ロイド・ジョージ自身は保護貿易主義者に転向したという噂を否定したが、ボールドウィンはその情報に確信を持っており、ロイド・ジョージを倒さねばオースティン・チェンバレンらとともに保守党を把握すると懸念し、唯一の方法は関税問題を前面に押し出して総選挙することだと考えた。 11月12日には国王に拝謁して解散総選挙を求め、11月13日には庶民院で解散を行う旨を声明した。 帝国特恵関税制度を選挙の争点としつつ、庶民の不安を高めないよう食料には関税を課さないことを強調して訴えたが、その訴えは有権者から広く信じられなかった。自由党と労働党は保護貿易によって食糧費が高くなるという恐怖感を煽り、結局「高いパンか安いパンか」が争点の総選挙となった。 12月6日に選挙結果が判明し、保守党は前回議席から87議席失う257議席となり、一方野党の労働党は191議席、自由党は151議席をそれぞれ獲得した。保守党政府は過半数を失う形となったが、自由党の出方が不透明だったのですぐには総辞職せず、新議会を招集した。 しかし1924年1月21日の庶民院において労働党議員ジョン・ロバート・クラインス提出の政府不信任決議案が自由党の賛成も得て72票差で可決された。そのため1月22日にボールドウィンは辞職し、ラムゼイ・マクドナルドを首相とする史上初めての労働党政権が発足することとなった。
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