第1次マクドナルド内閣に対する野党期(1924年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 03:45 UTC 版)
「スタンリー・ボールドウィン」の記事における「第1次マクドナルド内閣に対する野党期(1924年)」の解説
1924年1月にマクドナルドに政権を譲った後、ボールドウィンは野党党首になった。ボールドウィンは労働党の漸進的な社会改良主義と共産主義は分けて考えており、労働党を全否定はしていなかった。特に首相マクドナルドの外交観はボールドウィンとそれほど差はなかったため、ボールドウィンはマクドナルドに信頼感を持っていた。そのことについて国王側近の初代スタンフォーダム男爵アーサー・ビッゲ(英語版)は、「ボールドウィンは首相マクドナルドを好み、信頼している。彼はしばしば首相と興味のある話をしていた。彼は首相が共産主義に対して冷静に断固として反対するであろうと考えていた」と評している。 ところが、マクドナルド労働党政権は、1924年2月にソ連と外交関係を樹立し、4月14日から対ソ一般条約締結を目的とした交渉をロンドンで開始した。8月5日まで続いたこの交渉自体はイギリス人財産賠償問題を巡って決裂したのだが、その直後に労働党左派議員が非公式に調停者になってイギリスとソ連の仲立ちをして8月8日には対ソ一般条約が締結された。 保守党や自由党はこの条約に強く反発した。労働党左派議員が政府に圧力を加えて無理やり調印させたこと、さらにこの条約によりイギリス金融市場でソ連の募集する債権を政府が保証しなければならなくなるためだった。ボールドウィンも労働党左派議員が外交問題に介入したことに憤った。 さらにグレートブリテン共産党のジョン・ロス・キャンベル(英語版)が『ワーカーズ・ウィークリー(英語版)』で兵士に労働者を撃たないよう呼びかけたが、法務総裁パトリック・ヘイスティングス(英語版)はこれが1797年反乱扇動罪(英語版)に該当するとみなし、キャンベルを起訴したが、労働党左派議員たちがこの起訴に反発し、ヘイスティングスが起訴を取り消すというキャンベル事件(英語版)も発生した。この事件をめぐってもボールドウィンは労働党左派議員が司法に圧力をかけて不当に起訴を取り消させたと考え、労働党左派を強く批判した。 ボールドウィンは10月2日のニューキャッスルの演説において「労働党は過激主義者によって服従させられている」と断じ、ロシア条約を批判した。 10月8日の議会では自由党のアスキスから「自由党はロシア条約に反対し、キャンベル起訴問題に関する特別調査委員会の設置を要求する」との動議が提出され、保守党もこれに賛成したことで可決された。これに対してマクドナルドは解散総選挙に打って出た。 総選挙でもボールドウィンは労働党が過激主義者に支配されていること、失業問題に失敗したことを訴えた。この総選挙では保護関税をスローガンにするのは避けた。選挙戦中の10月24日にジノヴィエフ書簡事件が発生した。これはコミンテルン議長グリゴリー・ジノヴィエフが9月15日付けでグレートブリテン共産党に送ったとされる「資本家とブルジョワの妨害のせいで未だ条約批准が行われていないので労働者は批准獲得闘争を起こし、イギリスの現体制を崩壊させ、軍隊を解体させるべきである」旨の書簡であり、『タイムズ』紙がこの書簡とそれに対する英国外務省の抗議文を掲載したことで問題化した事件である。 この事件により労働党はイギリス労働者とソ連を結合させ、それによってイギリスで革命を起こそうとしている政党だという印象が一般に広まった。ボールドウィンと保守党も労働党とソ連の繋がりを徹底的に批判し、保守党の「安定」、労働党の「赤」のイメージの増幅に努めた。 その結果、10月29日の選挙結果は、保守党412議席、労働党151議席、自由党40議席という結果に終わった。この結果、再びボールドウィン保守党内閣に政権交代されることとなった。
※この「第1次マクドナルド内閣に対する野党期(1924年)」の解説は、「スタンリー・ボールドウィン」の解説の一部です。
「第1次マクドナルド内閣に対する野党期(1924年)」を含む「スタンリー・ボールドウィン」の記事については、「スタンリー・ボールドウィン」の概要を参照ください。
- 第1次マクドナルド内閣に対する野党期のページへのリンク