賠償問題
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「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」の記事における「賠償問題」の解説
「第一次世界大戦の賠償」も参照 1918年11月11日に締結されたドイツと連合国の休戦協定では、武器や鉄道車両の引き渡しの義務をドイツに課しており、これは実質的に賠償の性質を含んでいた。また後日締結される講和条約によって賠償が請求される旨の規定があった。 イギリスのジョン・メイナード・ケインズは、ドイツに対する賠償要求の原案を戦時中から統計資料に基づいて詳細に検討し、1918年11月に提出した報告で、請求すべき賠償額は高めに見積もって約40億ポンドであるが、ドイツの実際の支払い能力は楽観的な見込みに基づいて30億ポンド、慎重には20億ポンド程度であろうとした。しかしこれは多くの政治家には受け入れられず、連合国の戦費をすべてドイツに負担させるべきであるとして、ドイツの支払い能力ではなく大戦前のドイツの貯蓄に基づいて、240億ポンドという巨大な賠償要求を提示するものもあった。 パリ講和会議を経て1919年6月28日に締結されたヴェルサイユ条約では、連合国間の合意が得られなかったため、賠償額の総額は確定されず、後日賠償委員会に総額の確定を委ねることになった。しかし連合国が軍人に対して支払う恩給なども賠償額に含めるべきことが決められた。 パリ講和会議に失望したケインズは、講和会議の不正と愚劣を糾弾した『平和の経済的帰結(英語版)』を著した。その中で、賠償総額20億ポンドとし、うち現物の譲渡額を5億ポンドとし、残りの15億ポンドは30年間で5000万ポンドずつ支払わせることを提案した。これは連合国の直接的な損害額に一致するとともに、ドイツが正常な経済活動で実現できる輸出超過額であるとした。ドイツが賠償を支払うためには輸出によって貿易黒字を稼ぐことが不可欠であるが、戦前のドイツは貿易赤字だったのであり、鉄鋼や機械、石炭などの輸出を増加しようにも、石炭や鉄鉱石の産地の多くを割譲したドイツは輸入を増やさなければ増産自体ができず、賠償に充てられる有効な貿易黒字は輸出額すべてではなく、輸出と輸入の差額分のみである。このような輸出の増大は現実的ではなく、賠償請求が強行されれば貧困と階級対立の激化により革命の危機に陥ることを指摘した。また、ドイツを1世代にわたって奴隷状態に陥れて幸福を奪うような政策は、非人道的であるとも指摘した。 ケインズの指摘にも関わらず、1920年4月から1921年4月までの間に12回にわたって賠償委員会の会議が行われ、最終的に1921年5月5日に賠償総額を1320億金マルクとし、向こう30年間毎年20億金マルクと輸出額の26パーセントを支払うように決議し、1921年中に10億金マルクを払うように要求した。これをドイツは受諾した。 最初の賠償支払いは、支払期限となった1921年6月に実施された。ドイツは在外資産などを売却して10億マルクを支払ったが、資金調達の負担からマルク相場が下落していった。要求された総賠償額は1320億金マルクであったが、急速に価値が下落していくパピエルマルクではなく交換可能通貨で支払わなければならないとされたため、ドイツが一度に払わなければならない額は500億マルクとされた。 1921年8月から、ドイツはいかなる為替レートでも外貨をマルクで買い始めたが、マルクの価値崩壊をさらに加速するばかりであり、賠償委員会に要求された外貨を調達するためにはさらなるマルクを支払わなければならないことを意味した。ドイツ政府が戦争賠償を支払うために用いていた戦略は、大量の紙幣を発行して外貨を購入して賠償に充てるというものであったが、これによりパピエルマルクのインフレーションを深刻化させた。しかし1921年分については、ドイツ政府は何とか賠償の支払いを完了した。 ドイツは1922年7月12日に1922年分の残りと1923年、1924年分の支払いの猶予を求めたが、フランスは短期の休止のみ認めてそれ以外を拒否し、これを契機にマルクの為替相場は暴落し始めた。1922年12月には1米ドルが7,400マルクへと下落した。生活費指数(英語版)は1922年6月に41であったのが12月には685となり、ほぼ17倍へと増加した。1922年末には、ドイツ政府は賠償を履行できないと判明した。
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賠償問題
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淀川領事は、再三ペルー政府に対して調査委員会の調査の進捗状況を問合せた。しかし、暴動事件後も、排日感情が収まっておらず、排日的な意見を持つ者が「日本人に対して過大に被害額を査定した」と非難することを恐れて、故意に調査を遅延させているのではないか、と疑われていた。 領事館では賠償額を、400万ソルと見積もっていた。しかしペルー側の被害額の調査は、事件後1年経過した1941年5月に至っても全体の約半分程度であった。また調査が終わった部分の賠償額は日本側の査定した請求額と大きな開きがあり、ペルー側の調査に従って賠償額が決定すれば、移民の間から大きな不満が起こるだろうと予想された。 被害にあった日系移民には、生活に困窮するものも出てきており、外務省はペルー政府に前払いで暫定的に支払うように交渉するようにと、領事館に対して訓令を行った。そして交渉の末、ペルー政府は1941年3月に賠償金10万ソルの前払いに同意した。 1941年8月に一部物資払いで、総額140万ソルで賠償金が合意となった。賠償の関連法案に大統領署名を得て、官報に掲載されたのは、1941年12月6日であった。12月7日、賠償に関する法案が官報に公布されたことを日系移民に報告する会が、リマ日本人小学校で開かれた。その席上で、太平洋戦争開戦のニュースが伝えられた。 太平洋戦争開戦まもなく、日本とペルーは断交となった。そのため、1962年まで賠償問題は棚上げとなった。 1962年、太平洋戦争時にペルー政府が行った日系移民資産凍結に対する解除問題の解決後、暴動事件の賠償金が日本大使館とペルー政府の間で議論されることになった。1963年、三浦文夫大使とペルー外務大臣との間で、暴動事件の賠償金未払額130万ソルの存在の確認と、1964年より20万ソルの年賦支払いを合意した。しかし、ペルー政府は財政の問題を理由に支払い実行に応じず、1966年に5万ソルの支払いを実行しただけであった。
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賠償問題
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犠牲者遺族に対する賠償金及び、船体を引き揚げる費用や被害者の捜索にかかった費用等を合算すると、おおよそ600億円に上るとみられているが、セウォル号は過積載や船体の不正改造などの指摘もあり、さらに船員も避難誘導をせずに逃げだしていることから、保険の対象外となる可能性がある。このため韓国当局は、数百億円の資産を持ち、実質オーナー兪炳彦の責任として賠償金を支払わせる方針だ。しかし韓国メディアによると、兪自身の名義の財産は無く、兪に賠償責任を負わせる場合、家族名義の資産も対象にしなければならない(一族名義の財産はおよそ200億円分)。大統領の朴は談話の中で、国民の命に被害与えた企業の利益を没収し、補償に充てるなどとしており、韓国当局は、この大統領の宣言に基づいて、事故当事者の家族や第三者名義の隠し財産も没収できる法律をつくると考えられているが、これはいわゆる事後法となり、容疑事実の立証は難航が予想されている。法治国家、例えば日本の場合、日本国憲法第39条において、何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない法の不遡及が定められている。韓国でもこれは法の原則だが、その一方で、法の不遡及を曲げた事例が見られる。例えば、1979年の粛軍クーデター及び1980年の光州事件関係者を処罰した光州事件特別法(朝鮮語版記事)が1995年に韓国国会で成立したことや、過去の親日行為者とその子孫の財産没収及び財産没収を正当化するため、2005年に与野党169人の議員が国会に提出、12月8日に可決、同月29日に公布された、親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法(通称:親日法)など。韓国メディアは、それでも相当分を税金でまかなう事になろうだろうと指摘している。 5月28日、仁川地検特別捜査チームは、兪一族の2400億ウォン(約239億円)相当の財産に対して、起訴前の追徴保全命令を裁判所に請求した。追徴保全額は容疑者の兪1291億ウォン、長女492億ウォン、長男56億ウォン、次男559億ウォン。また、借名財産を探して差し押さえるために関連の営農組合法人などに対する捜査にも着手した。 6月10日、大統領の朴は、国務会議を主催したとされ、会長の兪の検挙のために検警が多くの努力をしているが、捕まえられなければ話にならないと考える、などとのべ、検察と警察を叱責した。この中で朴は、不道徳な企業運営で国民の身体と財産に大きな被害をもたらした場合、企業主本人の財産だけでなく、第3者名義で隠されている財産まで徹底的に追跡し、没収する必要がある、などと述べた。 6月20日、韓国政府はセウォル号の船会社である清海鎮海運の実質オーナー兪炳彦らに対し、およそ4031億5000万ウォン(約404億円)相当の財産差し押さえをソウル中央地裁に申し立てた。差し押さえた財産は犠牲者及び遺族への補償とされているが、韓国政府も事故の被害者として救助や捜索作業や船の引き揚げ作業といった費用も請求するとされている。 2015年4月5日、海洋水産部はセウォル号の被害者や遺族に向けての被害補償申請の説明会を開いた。その中で、賠償金を受けた場合、以後は政府に異議提議しないという誓約を結ばなければならないことに、一部被害者や遺族が反発。一部の被害者は、この賠償金の申請を行ったが、「4・16家族協議会」は、2015年6月29日、政府の賠償・補償金の支払いを拒否し、国を相手取って民事訴訟を起こすと発表した。 2015年6月12日、海洋水産部は、セウォル号犠牲者に国費慰労支援金として1人あたり5000万ウォン(約550万円)を支給すると発表した。これは損害賠償金とは別扱いとなる。
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