賠償船として日本に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:38 UTC 版)
1914年8月、第一次世界大戦の影響で係船され、ドイツ敗戦後の1919年4月にはアメリカ海軍の軍隊輸送船となった。同年末にはイギリスに、さらに翌1920年7月には賠償船として日本政府へ引き渡された。 1921年より東洋汽船に運航が委託され、「大洋丸」としてサンフランシスコ航路に就航する。要請が空振りに終わった後の、高橋是清内閣閣僚の懇願に東洋汽船社長淺野総一郎が折れて、本船を受諾したとされる。 東洋汽船に引き渡されて「大洋丸」と命名された本船は、煙突を切り詰め、デッドウエイト・バラストを増加するなどの改修工事を施された。1926年に東洋汽船の旅客船部門が日本郵船に吸収されると、本船も日本郵船の運航となった。1929年5月4日には大蔵省より130万円で払い下げられ、正式に日本郵船の所有となった。1932年のロサンゼルスオリンピックでは陸上競技、女子競泳・男女飛込・水球、漕艇などの日本代表や競技役員など選手団本隊が搭乗した。6月30日に出港。三等客室に仮設十畳敷レスリング場を設置し、乗客の厚意でプールは競泳女子チームの練習用に提供され、松澤初穂女子主将や前畑秀子などの代表選手が使用した。また古い「大洋丸」を避け、漕艇競技のボートといった用具は「浅間丸」に積み込まれた。 1939年10月、国策会社の東亜海運へ移管され、上海航路に転配される。当時の日米間の関係悪化を受けて1941年8月に太平洋航路の定期便は減便されており、さらに太平洋航路は在米日本資産としてのアメリカ政府の差し押さえされることを避けて、東洋汽船から日本政府が貸切る形となった。「大洋丸」はその一隻として、10月20日神戸港から横浜港(10月21日出航)を経由し、アメリカのホノルルを往復した(11月1日到着、5日に復航、17日横浜帰港)。往航搭乗者は引揚げ外国人301名、復航は日本人帰国者447名であった。
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