賠償艦として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 19:53 UTC 版)
「響 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「賠償艦として」の解説
復員輸送艦の任務を解かれたあとは特別保管艦として長浦港に係留され、抽選の結果、賠償艦としてソビエト連邦に引き渡されることとなった。1947年7月5日、ナホトカでソ連側に引き渡された。この時、残留乗員がソ連側乗員に対して各種操作法を指導したが、機関関係についてはソ連側乗員に蒸気タービンに関する知識が少なかったらしく、指導に対してただ驚くばかりで自分たちで動かそうともしなかった。 7月7日にはウラジオストクへ回航され、7月22日にはヴェールヌイ(Верный /ˈvʲernɨj/ ヴィェールヌィイ)と改称された。これは、「真実の、信頼できる」といった意味のロシア語の形容詞である。10月には引き渡された旧日本艦の調査が行われたが、居住性の悪さや復員輸送後に整備されなかった事による状態の悪さが問題となり、武装解除されていたことも相まって「ソ連軍艦として運用するには大掛かりな改造が必要である」と結論付けられた。しかしどの艦も技術資料は日本側によって処分されており、ソ連の造船技術者達の対応を悩ませた。 1947年11月、ソ連海軍は海軍第1研究所のザイツェフ中佐を団長とした旧日本艦の運用調査団を編成し、翌1948年6月、調査団の報告に基いてソ連海軍は艦艇配分を指示した。この際ヴェールヌイは第5艦隊(後に第7艦隊と統合して太平洋艦隊)に練習艦として配属される予定となった。7月5日には第一線を退き、練習船に種別を変更された。同時に、艦名もデカブリスト(Декабрист /dʲɪkɐˈbrʲist/ ヂカブリースト)に改められた。これは、ロシアにおける革命運動の端緒となった12月党の乱の参加者のことである。デカブリストを含め旧日本艦の多くは補助的な任務に当てられていたが、これは当時ソ連極東部にあった造船所の能力が低く、大規模な工事ができないためであった。ただし、有事には武装を強化して警備艦として運用する計画もあり、1949年1月にはソ連海軍総司令部作戦局により、旧日本艦の再兵装案が作成された。計画されたデカブリストの再兵装案は以下の通りである。 B-13-2s型130mm単装砲4基 V-11型37mm連装機銃2基 70K型37mm単装機銃2基 533mm3連装魚雷発射管1基 BMB-2型爆雷投射機2基 MBM-24型対潜ロケット発射機1機 しかし改造費用が多額になること、造船所の整備対応能力が欠けていたことから造船省の首脳部が旧日本艦の工事を拒否し、艦政局も本格的な改造を諦めて最低限の工事を施すことにした。この工事は新たに第5艦隊下へ編成された特務設計局の指示の元、海軍傘下の造船所にて行われたが、整備能力は著しく下がることとなった。1949年末には後方組織が再編された際に何故か特務設計局が解体されてしまい、1950年末に再設置される事態も起こった。1951年からは造船省傘下の造船所も工事へ協力するようになったが、予算不足により旧日本艦の改造工事は捗らなかった。最終的に1952年には、予算不足と造船所の能力不足からデカブリストを練習艦へ改造することが諦められ、海軍航空部隊の標的曳航船として運用された。1953年2月20日には老朽化を理由に除籍。その後西側には長らく消息不明で除籍時に解体されたと思われていたが2010年代になってから1970年代に海軍航空隊の標的艦として処分、ウラジオストク沖のカラムジナ島岸に眠っていることが判明した。現在ではダイビングツアーも行われている。 なお、ヴェールヌイという艦名は第5艦隊に所属した30-bis型駆逐艦に受け継がれている。また、同じ艦名を持つ艦艇としては海上自衛隊の音響測定艦「ひびき」が挙げられる。但し、これは特型駆逐艦の名称を受け継いだというよりはその任務からの命名、および名所の響灘に由来する。
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