1943年以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 17:31 UTC 版)
「ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)」の記事における「1943年以後」の解説
1943年(昭和18年)9月上旬、イタリアは降伏した。イタリア本国艦隊司令長官のカルロ・ベルガミーニ(英語版、イタリア語版)大将は新鋭戦艦3隻(ローマ、ヴィットリオ・ヴェネト、イタリア)を率いて出撃する準備をしていたが、祖国の降伏によりラ・スペツィアから移動することになった。これはドイツ軍による接収を避けるという側面もあり、実際にラ・スペツィアで修理中の重巡2隻(ゴリツィア、ボルツァーノ)は進駐してきたドイツ軍に鹵獲されている。このイタリア艦隊をドイツ空軍のDo217(第100爆撃航空団)がフリッツXで攻撃し、旗艦ローマ (Roma) は爆沈してベルガミーニ提督も戦死した。姉妹艦イタリアは被弾したが、生還できた、フリッツXの攻撃から生き延びたヴィットリオ・ヴェネトとリットリオはエジプトに派遣され、スエズ運河のグレートビター湖で抑留された。ヴィットリオ・ヴェネトが連合国軍と共にフランス南部および太平洋で戦闘に参加するという提案は、政治的・運用上の配慮により実現しなかった。 「イタリアとの平和条約」も参照 ヴィットリオ・ヴェネトは地中海で56回の作戦活動に参加し、その内の11回は索敵攻撃任務であった。第二次世界大戦後、イタリアでは王政が廃止されて共和国が樹立した。パリ条約の締結にともない、イタリア海軍の艦艇のうち、一部は賠償艦として連合国陣営に引き渡される。ヴィットリオ・ヴェネトは賠償艦としてイギリスに回航されたが、その後イタリアに返還された。1948年に除籍された後も長期間保管されていたが、1960年にスクラップとして廃棄された。
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