1943年以後の作戦
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「長距離砂漠挺身隊」の記事における「1943年以後の作戦」の解説
1943年5月、LRDGは山岳戦闘の再訓練のためにレバノンへ送られた。しかしながら1943年のイタリアの休戦を受けて、彼らは通常の歩兵部隊として任務を果たすべく、ドデカネス諸島の一環であるレロス島へと派遣された。その後レロス島の戦い(英語版)に参加し、そこで指揮官のジョン・リチャード・イーソンスミス(英語版)は戦死して、デイヴィッド・ロイド・オーウェン(英語版)が後を引き継いだ。この戦いの後に、2名の士官とおよそ46名の人員からなる残りのニュージーランド人がLRDGから離れ、自らの師団へと復帰した。 1943年12月、LRDGは8巡視隊を擁する2個中隊として再編成された。各巡視隊が1名の士官、10名の他階級の者を含むものであった。モイア・ストールモンス・ダーリング少佐がイギリス人中隊の、ケネス・ヘンリー・ラザルス少佐がローデシア人中隊の指揮を任された。次いで各巡視隊は、ドイツ軍部隊の移動に関する情報を掴むべくローマの北部に落下傘降下し、またダルマチア諸島とコルフ島への襲撃を敢行した。 1944年8月、イギリス人中隊の巡視隊がユーゴスラヴィアへ落下傘降下した。ある巡視隊は2本の40フィート(12メートル)長の大型鉄道橋を破壊し、ドイツ軍の部隊と物資の移動に大いに混乱をもたらした。指揮官のオーウェン中佐と36名からなる一団は1944年9月、アルバニアへ降下した。彼らの任務はドイツ軍の後退を追跡し、それを攻撃するアルバニアの抵抗組織(英語版)を支援することであった。1944年10月、イギリス人中隊の2巡視隊がギリシアのフロリナ地域に降下した。そこで彼らは、後退するドイツ軍が利用していた道路に地雷を敷設し、3台の車両を破壊して道路を塞いだ。立ち往生した車列に隣接する丘陵から発砲し、残存車列を破壊するべくイギリス空軍の飛行機を誘導した。 ヨーロッパでの戦争が終結するとLRDGの指揮官連はイギリス陸軍省へ、部隊が極東方面へ移され、日本軍に対する作戦に従事できるよう請願を行った。この請願は退けられ、LRDGは1945年8月に解散した。
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