彼らの任務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 17:25 UTC 版)
「バッファロー・ソルジャー」の記事における「彼らの任務」の解説
南北戦争の間、合衆国政府は、白人士官の率いる黒人兵士で構成された、アメリカ合衆国黒人部隊として知られる連隊を形成した。戦争の後、議会は軍を再編成し、第9および第10合衆国騎馬隊として黒人騎馬隊の2連隊と、第38、39、40、41歩兵連隊(有色)として黒人歩兵隊の4連隊の構成を認可した。第38および第41連隊は第25歩兵連隊として再編成され、1869年11月に、本部をニューオーリンズのジャクソン・バラックスに置いた。第39および第40連隊は第24歩兵連隊として再編成され、1869年4月にテキサス州クラーク砦に本部を置いた。これらのユニットのすべては、ベンジャミン・グリアソン、ラナルド・S・マッケンジーなどの白人士官、臨時でヘンリー・O・フリッパー(en:Henry Ossian Flipper)などの黒人士官の指揮の下、黒人下士官兵で構成された。 1866年から1890年代初頭まで、これらの連隊はアメリカ合衆国南西部(アパッチ戦争)とグレートプレーンズ地域でのさまざまな戦役を務めた。彼らは、これらの領域での軍事行動の大部分に参加して、顕著な実績を残した。インディアン戦争の間、これらの4つの連隊から、13人の下士官兵と6人の士官が名誉勲章を手に入れた。軍事行動に加えて、「バッファロー・ソルジャー」は道路の建設から合衆国郵便の護衛まで、辺境地でさまざまな役割を果たした。 インディアン戦争が1890年代に終わった後も、連隊は任務を継続し、サンフアンヒルの戦い(en:Battle of San Juan Hill)を含む米西戦争に参加し、ここでさらに5つの名誉勲章を受けた。彼らは1916年、メキシコへのパンチョ・ヴィラ遠征(en:Pancho Villa Expedition)や米比戦争にも参加した。 バッファロー・ソルジャーの物語において忘れられている貢献は、最初の国立公園レンジャーのいくつかとしてカリフォルニア州のシエラネバダ山脈で務めた、第9騎馬連隊の8部隊と第24歩兵連隊の1中隊である。1899年、第24歩兵連隊のH中隊のバッファロー・ソルジャーは、セコイア国立公園とキングズ・キャニオン国立公園と同様に、ヨセミテ国立公園で短期間務めた。 アメリカ陸軍連隊はこれらの国立公園に1891年から務めていたが、1899年までは兵士は白人であった。1899年に始まって、1903年と1904年と続いて、黒人連隊は夏期の間、アメリカで2番目(セコイヤ)と3番目(ヨセミテ)に古い国立公園で務めた。1916年に国立公園局ができる前にこれらの兵士が務めたために、「パーク・レンジャーズ」(公園管理者)という言葉が生まれた。 一人の特定のバッファロー・ソルジャーは歴史に残っている。1903年の夏にセコイヤ国立公園で第9騎馬連隊「I」部隊に務めていたチャールズ・ヤング(en:Charles Young)大尉である。チャールズ・ヤングはウエストポイントの陸軍士官学校を卒業した3人目のアフリカ系アメリカ人で、彼の死の時点では、彼はアメリカ軍で最も高い地位にいたアフリカ系アメリカ人だった。彼は1903年、セコイヤとキングズ・キャニオンの国立公園の軍事最高責任者になることで、セコイヤ国立公園の歴史に名を残した。公園でのヤングの在職中、彼は巨大なセコイヤの木をブッカー・T・ワシントンと名付けた。最近になって、広大な森林の中の他のセコイヤの巨木がキャプテン・チャールズ・ヤングにちなんで名付けられた。チャールズ・ヤングの子孫の中には、その儀式に出席した人もいた。チャールズ・ヤングは、国立公園の最初のアフリカ系アメリカ人の最高責任者でもある。
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