1943年の行動とは? わかりやすく解説

1943年の行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 00:16 UTC 版)

白雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1943年の行動」の解説

1943年昭和18年3月上旬修理終えた白雲」は訓練従事した4月1日初雪型駆逐艦白雲薄雲)は第9駆逐隊編入され、9駆は3隻編制朝雲薄雲白雲となった。第9駆逐隊北方部隊指揮官第五艦隊司令長官河瀬四郎海軍中将)に編入され戦時編制改定により第一水雷戦隊軽巡阿武隈軽巡木曾、第6駆逐隊、第9駆逐隊、第21駆逐隊となった当時の第9駆逐隊司令は、小西要人大佐であった。「白雲」は呉から横須賀移動したあと、重巡洋艦摩耶」を護衛して北方向かった青森県大湊からは3隻(摩耶白雲若葉)で幌筵島向かったこの頃ガダルカナル島攻防戦ニューギニア方面輸送作戦最前線奔走してきた「朝雲」は、5月下旬まで横須賀修理整備おこなった。「朝雲」の修理完了して北方進出するまで、「薄雲」や「白雲」が臨時司令駆逐艦となった5月11日1400護衛隊木曾白雲若葉)は特設水上機母艦君川丸」を護衛し千島列島北東端の幌筵島出撃してアッツ島むかった5月12日午前0時、「白雲」は解列して幌筵むかった。同12日午前10日アメリカ軍アッツ島上陸開始アッツ島の戦い始まったアッツ島来襲時、幌筵在泊の大型艦第五艦隊旗艦摩耶」しかおらず、重巡那智」と駆逐艦初霜」は前日横須賀出発したばかりだった。北方部隊指揮官第五艦隊司令長官)は修理中や移動中の各艦を幌筵進出させるとともに君川丸偵による空襲現有水上兵力による敵撃滅試みた。同12日2000、「摩耶」は「白雲」を率いて幌筵出撃した。だが悪天候濃霧により護衛隊会合できず、君川丸偵も発進できず、14日朝になり各部隊幌筵帰投命じた。ちょうど「那智」と「初霜」が幌筵到着したので、第五艦隊旗艦は「那智」に戻った連合艦隊からの増援部隊加わり5月15日時点北方部隊軍隊区分は(北方部隊電令作第312号)、主隊(那智木曾多摩摩耶)、支援部隊妙高羽黒)、水雷部隊阿武隈、第9駆逐隊朝雲白雲薄雲〉、第21駆逐隊若葉初霜〉、駆逐艦長波五月雨、響〉)、潜水部隊航空部隊附属部隊17日付で第五艦隊編入の第1駆逐隊神風沼風となった20日北方部隊アッツ島包囲する艦隊奇襲すると共に、第1駆逐隊神風沼風)によるアッツ島輸送発令したが、出撃延期された。「神風」と「沼風」は弾薬糧食満載しウェーク島攻略戦における第32号哨戒艇第33号哨戒艇のように、アッツ島擱坐揚陸する予定であったという。 5月25日北方部隊軍隊区分変更され第一水雷戦隊司令官指揮する前衛部隊一水司令官直率〈 阿武隈木曾朝雲白雲薄雲長波 〉、挺身隊若葉初霜 〉、輸送隊沼風神風 〉)が編成された。北方部隊は、前衛部隊によるアッツ島緊急輸送作戦命じた。同25日夕刻前衛部隊幌筵海峡出撃してアッツ島むかった。だが悪天候のため、旧式駆逐艦航行は困難であった一水司令官28日0145に第1駆逐隊沼風神風)の幌筵帰投命じる。5月29日アッツ島守備隊守備隊長山崎保代陸軍大佐含め玉砕した前衛部隊洋上玉砕電を受信し幌筵帰投した。 アッツ島玉砕後の6月6日幌筵島泊地停泊中の第一水雷戦隊旗艦阿武隈」において、一水司令官森友一少将脳溢血倒れた。同6日夜、カムチャッカ半島ロパートカ岬南方海面行動中の第1駆逐隊神風沼風)が対潜攻撃おこない、「白雲」と「薄雲」が支援向かった同日深夜、「白雲」は「沼風」と衝突した。「沼風」は大破した。「白雲」も艦首一部切断損傷受けた乗組員に異常はなかった。両艦は応急修理自力航行が可能となり、「白雲」は「朝雲」に、「沼風」は「若葉」に護衛され幌筵島帰投した。 翌7日朝、「阿武隈」は少将大湊警備府移送するため幌筵出発した。「白雲」は幌筵戻ってきており、「阿武隈」や「五月雨」など在泊艦艇からは「白雲」の損傷具合がよく見えたという。「白雲」と「沼風」は在泊の重巡洋艦接舷して修理行った6月12日第五戦隊北方部隊からのぞかれ、「白雲」も北方部隊水雷部隊から除かれた。同日第五戦隊と共に幌筵出発し、「白雲」のみ大湊移動した続いて大湊から函館港回航され、本格的な修理入ったこのため第9駆逐隊僚艦朝雲薄雲)が参加したキスカ島撤退作戦には加わっていない。 「白雲」が函館市修理中の同年8月5日日本海軍第十二航空艦隊第五艦隊により北東方面艦隊新編した。第五艦隊麾下各部隊・各艦は「北東方面部隊」として、引き続き千島列島北海道周辺での作戦従事するこの頃舞鶴海軍工廠満潮駆逐艦」の修理完成し9月1日付で第9駆逐隊編入された。9月21日、「白雲」の修理が終わる。大湊小樽経由して幌筵進出した。第9駆逐隊朝雲薄雲白雲)は幌筵海峡拠点行動した10月31日、「朝雲」は第10駆逐隊転出した。9駆は3隻編制薄雲白雲となった司令駆逐艦は「」に変更される11月になると「薄雲」と「白雲」は修理整備を行うことになった。「薄雲」は呉工廠移動し、「白雲」は大湊残った。防凍工事応急舵などの整備をおこなう。12月末まで「白雲」は大湊修理整備おこなった

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1943年の行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:22 UTC 版)

大淀 (軽巡洋艦)」の記事における「1943年の行動」の解説

1943年昭和18年2月28日竣工後、横須賀鎮守府内戦部隊編入され横須賀や呉で訓練従事した4月1日第三艦隊附属となった5月上旬、「大淀」は駆逐艦新月第五航空戦隊(鳳翔龍鳳と共に内海西部にあったアッツ島の戦い生起すると、機動部隊瑞鶴翔鶴瑞鳳)等と共に横須賀方面待機する5月29日アッツ島日本軍守備隊玉砕した5月31日第一航空戦隊翔鶴瑞鶴瑞鳳)、巡洋艦2隻(大淀最上)、駆逐艦部隊横須賀から西日本へと向かう。巡洋艦2隻(大淀最上)や駆逐艦島風などは柱島泊地戦艦部隊長門扶桑と共に停泊したが、これにより6月8日戦艦陸奥爆沈遭遇することになった7月10日第三艦隊司令長官小沢治三郎中将指揮する空母4隻(翔鶴瑞鶴瑞鳳冲鷹)、重巡洋艦3隻(利根筑摩最上)、軽巡洋艦2隻(大淀阿賀野)、水上機母艦日進駆逐艦部隊横須賀出撃する。各艦は、マーシャル諸島ソロモン諸島派遣予定陸軍部隊軍需物資搭載していた。 7月19日大型艦5隻(利根筑摩最上大淀日進)と第十戦隊阿賀野萩風、嵐、磯風涼月初月)は更にトラック泊地経てラバウル進出した7月21日第十戦隊司令官大杉守一少将阿賀野から一時的に萩風移乗旗艦変更した。嵐は利根萩風筑摩磯風大淀接舷それぞれ補給受けた準備完了後、日進隊(日進萩風、嵐、磯風)はラバウル出撃ブーゲンビル島ブインへと向かうが、ブイン直前アメリカ軍70機以上の攻撃を受け日進沈没したこのあと、第4駆逐隊萩風、嵐)のみソロモン諸島に残ることになった。他艦(利根筑摩最上阿賀野大淀磯風涼月初月)はトラック帰投した。7月26日トラック泊地に戻る。8月31日吹雪型駆逐艦駆逐艦長等を歴任した篠田勝清大佐は、富岡大佐後任として大淀艦長補職される。10月17日クェゼリン環礁進出10日ほど警備したあとトラック戻った。 「戊号輸送」も参照 11月下旬連合軍ブーゲンビル島ニューブリテン島対す攻勢強めラバウル方面防衛線は崩壊寸前だった。そこで日本軍ニューアイルランド島アドミラルティ諸島方面兵力増強するため、増援部隊内地から最前線輸送することになった12月17日連合艦隊内地トラック泊地カビエンへの輸送作戦を『戊号輸送作戦』と命名しその実施を各部隊下令した。戊号作戦輸送部隊編成以下の通り。 戊一号輸送部隊内地トラック泊地大和艦長大野竹ニ大佐戦艦大和、(19日付で第10駆逐隊秋雲輸送部隊より除かれた)、第17駆逐隊谷風、第4駆逐隊山雲二号輸送部隊トラック泊地カビエン第五戦隊司令官橋本信太郎少将第五戦隊妙高羽黒)、重巡洋艦利根第27駆逐隊白露時雨藤波変更) 戊三号輸送部隊第一部隊(第7戦隊司令官西村祥治中将第七戦隊熊野鈴谷)、駆逐艦谷風満潮 戊三号輸送部隊第二部隊第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将第二水雷戦隊能代駆逐艦秋月山雲 12月25日、戊一号輸送部隊大和谷風山雲)はトラック泊地到着した26日大淀以下戊三号輸送部隊第二部隊大和横付けし、大和日本本土から輸送してきた宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊軍需品受け入れた。各艦の搭載区分は、能代人員400名・物650トン大淀500名・1000トン山雲50名・100トン秋月150名・50トン12月29-30日、戊三号輸送部隊第二部隊第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将旗艦能代)の指揮下、軽巡洋艦2隻(能代大淀)、駆逐艦2隻(秋月山雲)の計4隻でカビエン向かった1月1日4時45分カビエン着。 同地カビエン物資揚陸作業完了直後輸送部隊アメリカ軍機約100機(85機とも)に襲撃された。これはシャーマン提督率い空母2隻(バンカー・ヒルモンテレー)から飛来し攻撃隊だった。第2水雷戦隊戦闘詳報では『作戦影響セル事項』として「大淀の揚搭作業が他艦より約2時間遅れた」・「基地航空隊による哨戒不足していた」事を指摘している。搭載物件多く重砲引き渡すまで行動起こせなかったのが原因だった。カビエン基地航空隊陸上基地派遣第二航空戦隊空母龍鳳飛鷹所属戦闘機36)が上空掩護を行う筈であった敵機排除しきれず、米軍機第2部隊に殺到した対空戦闘開始時、4隻(能代大淀秋月山雲)は旗艦能代中心にして能代右舷4km秋月能代左舷3km山雲能代後方8kmに大淀という陣形とっていた。早川少将大淀の直衛に秋月派遣したため、戊三号輸送部隊第一群(能代山雲)と第二群(大淀秋月)に分離アメリカ軍機は二手にわかれると、比較大型巡洋艦2隻(能代大淀)を主として狙った一方日本側も2隻ずつ二手分かれたことにより、各艦が全速発揮して回避運動を行うことが可能になった。 大淀は8時42分に射撃開始して9時19分に砲撃停止大淀規定対空主砲300発を撃ち尽くし水上弾や演習弾まで発砲したという。戦闘詳報による各艦消費弾数は、大淀主砲194高角砲240機銃4640、能代主砲283高角砲29機銃1612、秋月主砲190機銃1260山雲主砲94機銃1230。大淀煙突近くに50kg爆弾1発が命中不発)、至近弾と機銃掃射より2名が戦死、4名が重軽傷、他に能代直撃弾1と至近弾5で中破山雲損傷受けた零戦隊は撃墜24不確実14)機を報告し、未帰還機6(第二航空戦隊所属4)機を出した戦闘終了後第二水雷戦隊司令部能代)は大淀対し搭載高速水上偵察機によるアメリカ軍機動部隊捜索指示する。しかし大淀搭載水上偵察機空襲時に損傷受けており応急修理も間に合わず結局能代は『一.飛行索敵ハ行ハズ 二.飛行機待機昼間ノミトス』と下令した。1月4日大淀秋月アメリカ潜水艦魚雷攻撃受けた輸送船清澄丸の救援向かったため、2隻(能代山雲)に2日遅れてトラック泊地到着輸送任務終えた。なお清澄丸は軽巡那珂第十四戦隊)に曳航されトラック泊地到着したその後大淀訓練従事し1944年2月トラック島空襲によりトラック泊地壊滅する直前退避し日本本土へ戻った2月16日より横須賀整備)。2月24日日本出撃し、サイパン島航空部隊関係の物資輸送する

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