1943年の行動
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「白雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1943年の行動」の解説
1943年(昭和18年)3月上旬、修理を終えた「白雲」は訓練に従事した。4月1日、初雪型駆逐艦(白雲、薄雲)は第9駆逐隊に編入され、9駆は3隻編制(朝雲、薄雲、白雲)となった。第9駆逐隊は北方部隊(指揮官:第五艦隊司令長官河瀬四郎海軍中将)に編入され、戦時編制の改定により第一水雷戦隊(軽巡阿武隈、軽巡木曾、第6駆逐隊、第9駆逐隊、第21駆逐隊)となった。当時の第9駆逐隊司令は、小西要人大佐であった。「白雲」は呉から横須賀に移動したあと、重巡洋艦「摩耶」を護衛して北方に向かった。青森県大湊からは3隻(摩耶、白雲、若葉)で幌筵島に向かった。この頃、ガダルカナル島攻防戦やニューギニア方面輸送作戦で最前線を奔走してきた「朝雲」は、5月下旬まで横須賀で修理と整備をおこなった。「朝雲」の修理が完了して北方に進出するまで、「薄雲」や「白雲」が臨時の司令駆逐艦となった。 5月11日1400、護衛隊(木曾、白雲、若葉)は特設水上機母艦「君川丸」を護衛し、千島列島北東端の幌筵島を出撃してアッツ島へむかった。5月12日午前0時、「白雲」は解列して幌筵にむかった。同12日午前10日、アメリカ軍はアッツ島に上陸を開始、アッツ島の戦いが始まった。アッツ島来襲時、幌筵在泊の大型艦は第五艦隊旗艦「摩耶」しかおらず、重巡「那智」と駆逐艦「初霜」は前日に横須賀を出発したばかりだった。北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は修理中や移動中の各艦を幌筵に進出させるとともに、君川丸水偵による空襲、現有水上兵力による敵撃滅を試みた。同12日2000、「摩耶」は「白雲」を率いて幌筵を出撃した。だが悪天候と濃霧により護衛隊と会合できず、君川丸の水偵も発進できず、14日朝になり各部隊の幌筵帰投を命じた。ちょうど「那智」と「初霜」が幌筵に到着したので、第五艦隊旗艦は「那智」に戻った。 連合艦隊からの増援部隊が加わり、5月15日時点の北方部隊軍隊区分は(北方部隊電令作第312号)、主隊(那智、木曾、多摩、摩耶)、支援部隊(妙高、羽黒)、水雷部隊(阿武隈、第9駆逐隊〈朝雲、白雲、薄雲〉、第21駆逐隊〈若葉、初霜〉、駆逐艦〈長波、五月雨、響〉)、潜水部隊、航空部隊、附属部隊、17日付で第五艦隊編入の第1駆逐隊(神風、沼風)となった。 20日、北方部隊はアッツ島を包囲する米艦隊を奇襲すると共に、第1駆逐隊(神風、沼風)によるアッツ島輸送を発令したが、出撃は延期された。「神風」と「沼風」は弾薬や糧食を満載し、ウェーク島攻略戦における第32号哨戒艇と第33号哨戒艇のように、アッツ島に擱坐揚陸する予定であったという。 5月25日、北方部隊の軍隊区分が変更され、第一水雷戦隊司令官が指揮する前衛部隊(一水戦司令官直率〈 阿武隈、木曾、朝雲、白雲、薄雲、長波 〉、挺身隊〈 若葉、初霜 〉、輸送隊〈 沼風、神風 〉)が編成された。北方部隊は、前衛部隊によるアッツ島緊急輸送作戦を命じた。同25日夕刻、前衛部隊は幌筵海峡を出撃してアッツ島へむかった。だが悪天候のため、旧式駆逐艦の航行は困難であった。一水戦司令官は28日0145に第1駆逐隊(沼風、神風)の幌筵帰投を命じる。5月29日、アッツ島守備隊は守備隊長山崎保代陸軍大佐を含め玉砕した。前衛部隊は洋上で玉砕電を受信し、幌筵に帰投した。 アッツ島玉砕後の6月6日、幌筵島泊地に停泊中の第一水雷戦隊旗艦「阿武隈」において、一水戦司令官森友一少将が脳溢血で倒れた。同6日夜、カムチャッカ半島ロパートカ岬南方海面で行動中の第1駆逐隊(神風、沼風)が対潜攻撃をおこない、「白雲」と「薄雲」が支援に向かった。同日深夜、「白雲」は「沼風」と衝突した。「沼風」は大破した。「白雲」も艦首一部切断の損傷を受けた。乗組員に異常はなかった。両艦は応急修理で自力航行が可能となり、「白雲」は「朝雲」に、「沼風」は「若葉」に護衛されて幌筵島に帰投した。 翌7日朝、「阿武隈」は森少将を大湊警備府に移送するため幌筵を出発した。「白雲」は幌筵に戻ってきており、「阿武隈」や「五月雨」など在泊艦艇からは「白雲」の損傷具合がよく見えたという。「白雲」と「沼風」は在泊の重巡洋艦に接舷して修理を行った。6月12日、第五戦隊は北方部隊からのぞかれ、「白雲」も北方部隊・水雷部隊から除かれた。同日、第五戦隊と共に幌筵を出発し、「白雲」のみ大湊へ移動した。続いて大湊から函館港に回航され、本格的な修理に入った。このため第9駆逐隊の僚艦(朝雲、薄雲)が参加したキスカ島撤退作戦には加わっていない。 「白雲」が函館市で修理中の同年8月5日、日本海軍は第十二航空艦隊と第五艦隊により北東方面艦隊を新編した。第五艦隊麾下の各部隊・各艦は「北東方面部隊」として、引き続き千島列島や北海道周辺での作戦に従事する。この頃、舞鶴海軍工廠で満潮型駆逐艦「霞」の修理が完成し、9月1日付で第9駆逐隊に編入された。9月21日、「白雲」の修理が終わる。大湊と小樽を経由して幌筵に進出した。第9駆逐隊(朝雲、霞、薄雲、白雲)は幌筵海峡を拠点に行動した。 10月31日、「朝雲」は第10駆逐隊に転出した。9駆は3隻編制(霞、薄雲、白雲)となった。司令駆逐艦は「霞」に変更される。11月になると「薄雲」と「白雲」は修理と整備を行うことになった。「薄雲」は呉工廠に移動し、「白雲」は大湊に残った。防凍工事や応急舵などの整備をおこなう。12月末まで「白雲」は大湊で修理と整備をおこなった。
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1943年の行動
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「大淀 (軽巡洋艦)」の記事における「1943年の行動」の解説
1943年(昭和18年)2月28日の竣工後、横須賀鎮守府内戦部隊に編入され、横須賀や呉で訓練に従事した。4月1日、第三艦隊附属となった。5月上旬、「大淀」は駆逐艦新月や第五十航空戦隊(鳳翔、龍鳳)と共に内海西部にあった。アッツ島の戦いが生起すると、機動部隊(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)等と共に横須賀方面で待機する。5月29日、アッツ島の日本軍守備隊は玉砕した。5月31日、第一航空戦隊(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)、巡洋艦2隻(大淀、最上)、駆逐艦部隊は横須賀から西日本へと向かう。巡洋艦2隻(大淀、最上)や駆逐艦島風などは柱島泊地で戦艦部隊(長門、扶桑)と共に停泊したが、これにより6月8日の戦艦陸奥爆沈に遭遇することになった。 7月10日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が指揮する空母4隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳、冲鷹)、重巡洋艦3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、水上機母艦日進、駆逐艦部隊は横須賀を出撃する。各艦は、マーシャル諸島やソロモン諸島派遣予定の陸軍部隊や軍需物資も搭載していた。 7月19日、大型艦5隻(利根、筑摩、最上、大淀、日進)と第十戦隊(阿賀野、萩風、嵐、磯風、涼月、初月)は更にトラック泊地を経てラバウルへ進出した。7月21日、第十戦隊司令官大杉守一少将は阿賀野から一時的に萩風へ移乗、旗艦を変更した。嵐は利根、萩風は筑摩、磯風は大淀に接舷しそれぞれ補給を受けた。準備完了後、日進隊(日進、萩風、嵐、磯風)はラバウルを出撃、ブーゲンビル島のブインへと向かうが、ブイン直前でアメリカ軍機70機以上の攻撃を受け日進が沈没した。このあと、第4駆逐隊(萩風、嵐)のみソロモン諸島に残ることになった。他艦(利根、筑摩、最上、阿賀野、大淀、磯風、涼月、初月)はトラックへ帰投した。7月26日、トラック泊地に戻る。8月31日、吹雪型駆逐艦暁駆逐艦長等を歴任した篠田勝清大佐は、富岡大佐の後任として大淀艦長に補職される。10月17日にクェゼリン環礁へ進出、10日ほど警備したあとトラックに戻った。 「戊号輸送」も参照 11月下旬、連合軍はブーゲンビル島とニューブリテン島に対する攻勢を強め、ラバウル方面の防衛線は崩壊寸前だった。そこで日本軍はニューアイルランド島、アドミラルティ諸島方面の兵力を増強するため、増援部隊を内地から最前線へ輸送することになった。12月17日、連合艦隊は内地〜トラック泊地〜カビエンへの輸送作戦を『戊号輸送作戦』と命名し、その実施を各部隊に下令した。戊号作戦輸送部隊編成は以下の通り。 戊一号輸送部隊(内地〜トラック泊地、大和艦長大野竹ニ大佐) 戦艦大和、(19日付で第10駆逐隊秋雲は輸送部隊より除かれた)、第17駆逐隊谷風、第4駆逐隊山雲 戊二号輸送部隊(トラック泊地〜カビエン、第五戦隊司令官橋本信太郎少将) 第五戦隊(妙高、羽黒)、重巡洋艦利根、第27駆逐隊(白露、時雨→藤波に変更) 戊三号輸送部隊第一部隊(第7戦隊司令官西村祥治中将) 第七戦隊(熊野、鈴谷)、駆逐艦谷風、満潮 戊三号輸送部隊第二部隊(第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将) 第二水雷戦隊能代、駆逐艦秋月、山雲 12月25日、戊一号輸送部隊(大和、谷風、山雲)はトラック泊地に到着した。26日、大淀以下戊三号輸送部隊第二部隊は大和に横付けし、大和が日本本土から輸送してきた宇都宮編成陸軍独立混成第一連隊と軍需品を受け入れた。各艦の搭載区分は、能代人員400名・物件650トン、大淀500名・1000トン、山雲50名・100トン、秋月150名・50トン。12月29-30日、戊三号輸送部隊第二部隊は第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(旗艦能代)の指揮下、軽巡洋艦2隻(能代、大淀)、駆逐艦2隻(秋月、山雲)の計4隻でカビエンへ向かった。1月1日4時45分、カビエン着。 同地カビエンで物資揚陸作業完了直後、輸送部隊はアメリカ軍機約100機(85機とも)に襲撃された。これはシャーマン提督が率いる空母2隻(バンカー・ヒル、モンテレー)から飛来した攻撃隊だった。第2水雷戦隊戦闘詳報では『作戦ニ影響セル事項』として「大淀の揚搭作業が他艦より約2時間遅れた」・「基地航空隊による哨戒が不足していた」事を指摘している。搭載物件が多く、重砲を引き渡すまで行動を起こせなかったのが原因だった。カビエン基地航空隊(陸上基地派遣第二航空戦隊〈空母龍鳳、飛鷹〉所属の戦闘機36)が上空掩護を行う筈であったが敵機を排除しきれず、米軍機は第2部隊に殺到した。 対空戦闘開始時、4隻(能代、大淀、秋月、山雲)は旗艦能代を中心にして能代右舷4kmに秋月、能代左舷3kmに山雲、能代後方8kmに大淀という陣形をとっていた。早川少将は大淀の直衛に秋月を派遣したため、戊三号輸送部隊は第一群(能代、山雲)と第二群(大淀、秋月)に分離。アメリカ軍機は二手にわかれると、比較的大型の巡洋艦2隻(能代、大淀)を主として狙った。一方日本側も2隻ずつ二手に分かれたことにより、各艦が全速を発揮しての回避運動を行うことが可能になった。 大淀は8時42分に射撃を開始して9時19分に砲撃を停止。大淀は規定対空用主砲弾300発を撃ち尽くし、水上弾や演習弾まで発砲したという。戦闘詳報による各艦消費弾数は、大淀主砲194・高角砲240・機銃4640、能代主砲283・高角砲29・機銃1612、秋月主砲190・機銃1260、山雲主砲94・機銃1230。大淀は煙突近くに50kg爆弾1発が命中(不発)、至近弾と機銃掃射より2名が戦死、4名が重軽傷、他に能代が直撃弾1と至近弾5で中破、山雲が損傷を受けた。零戦隊は撃墜24(不確実14)機を報告し、未帰還機6(第二航空戦隊所属4)機を出した。 戦闘終了後、第二水雷戦隊司令部(能代)は大淀に対し搭載高速水上偵察機によるアメリカ軍機動部隊捜索を指示する。しかし大淀搭載の水上偵察機は空襲時に損傷を受けており応急修理も間に合わず、結局能代は『一.飛行索敵ハ行ハズ 二.飛行機待機ハ昼間ノミトス』と下令した。1月4日、大淀と秋月はアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けた輸送船清澄丸の救援に向かったため、2隻(能代、山雲)に2日遅れてトラック泊地に到着、輸送任務を終えた。なお清澄丸は軽巡那珂(第十四戦隊)に曳航されトラック泊地に到着した。 その後、大淀は訓練に従事し1944年2月のトラック島空襲によりトラック泊地が壊滅する直前に退避し、日本本土へ戻った(2月16日より横須賀で整備)。2月24日、日本を出撃し、サイパン島へ航空部隊関係の物資を輸送する。
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