1942年と1943年の行動
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「薄雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1942年と1943年の行動」の解説
1942年(昭和17年)6月20日、池田周作少佐が薄雲駆逐艦長に任命された。7月31日、舞鶴海軍工廠における「薄雲」の修理が完了。同日、「薄雲」は第五艦隊(司令長官細萱戊子郎中将)編入され、北方部隊では主隊に編入された。8月5日に舞鶴を出発、大湊を経由し、千島列島・アリューシャン列島方面に進出する。8月11日、「薄雲」は第6駆逐隊(暁、雷、電、響)に編入される。8月15日、「薄雲」は北方部隊護衛隊に編入される。だが第6駆逐隊は8月28日付で機動部隊所属となり、北方部隊の指揮下を離れてガダルカナル島攻防戦に投入された。「薄雲」は第21駆逐隊(若葉、初春、初霜)に編入された。以後、「薄雲」は護衛部隊僚艦や、北方部隊所属の巡洋艦と共に、日本列島北東方面での海上護衛作戦、哨戒活動、アッツ島再占領作戦等に従事した。 1943年(昭和18年)2月10日から、薄雲は呉で修理と整備をおこなった。2月末に修理完了、佐世保での修理を終えた重巡洋艦「那智」を護衛して北方に戻り、3月4日幌筵島に到着した。この間、アッツ島で単独航行中の輸送船がアメリカ艦隊に撃沈される「あかがね丸事件」が起き、日本軍は護送船団方式に転換した。「薄雲」は第一水雷戦隊司令官の指揮下で行動する場合、第6駆逐隊第3番艦として行動するよう発令されていた。3月7日、薄雲を含む第一次輸送船団(主隊掩護部隊、護衛隊、輸送船団)は幌筵を出撃、3月10日アッツ島に到着して輸送に成功した。 3月22日16時、アッツ島への輸送を実施するため第二護衛部隊(薄雲、三興丸)は幌筵海峡を出発した。翌日には北方部隊と輸送船団(指揮官細萱戊子郎第五艦隊長官、主隊〈那智、摩耶、若葉、初霜〉、護衛部隊〈阿武隈、雷、電〉、輸送船〈浅香丸、崎戸丸〉)も出撃した。3月26日、北方部隊と第二護衛部隊(薄雲、三興丸)は合同に失敗し、細萱長官は合同命令を出す。3月27日午前2時、主隊(第五艦隊)はコマンドルスキー諸島南方海域でチャールズ・マクモリス少将率いるアメリカ艦隊(重巡1、軽巡1、駆逐艦4)と遭遇する(アッツ島沖海戦)。単縦陣最後尾の「電」は『敵見ゆ』を報じたが、「阿武隈」は『三興丸、薄雲発見』と報告、しばらくしてから敵艦隊と気づいた。アメリカ艦隊を第二護衛部隊と誤認したことは第五艦隊関係者の余裕を奪い、その後の戦闘に大きな影響を与えたとみられる。3時55分、「薄雲」は190度方向に戦闘煙を発見し、「三興丸」を西方に退避させると戦闘に参加するため南下を開始した。北方部隊指揮官は6時3分に「薄雲」と「浅香丸」へ幌筵帰投を命じ、7時25分にも「薄雲」に船団護衛と帰投を命じた。海戦も、日米双方が決定的戦果をあげないまま7時30分に終了した。3月29日12時15分、第二護衛部隊(薄雲、三興丸)は幌筵に帰投した。北方部隊の重巡は内地に戻り、薄雲や一水戦は幌筵に残った。3月30日、駆逐艦「雷」と「若葉」の衝突事故が発生し、2隻とも重巡の護衛を兼ねて横須賀に回航された。輸送駆逐艦は「電」と「薄雲」に改められた。3月31日、第五艦隊司令長官は細萱中将から河瀬四郎中将に変わった。 4月1日、白雪型駆逐艦(4月1日附で初雪型駆逐艦と改定)2隻(薄雲、白雲)は、第9駆逐隊に編入される。また4月1日付で実施された戦時編制改定により、第一艦隊から第一水雷戦隊と第三水雷戦隊が除かれ、一水戦は制式に第五艦隊の隷下となった。第9駆逐隊も第一水雷戦隊の隷下となり、北方部隊に編入された。 4月上旬から中旬にかけて、第五艦隊(北方部隊)は駆逐艦「電」と「薄雲」によるアッツ島輸送を計画・実施したが、成功しなかった。アッツ島に対しては、潜水艦によって細々とした輸送が行われた(モグラ輸送)。山崎保代陸軍大佐も伊号第31潜水艦によりアッツ島に上陸した。 この頃、ガダルカナル島攻防戦やニューギニア方面輸送作戦で最前線を奔走してきた第9駆逐隊の満潮型駆逐艦「朝雲」は、5月下旬まで横須賀で修理と整備をおこなった。「薄雲」(5月11日まで大湊で修理)や「白雲」が臨時の司令駆逐艦となった。5月25日、第9駆逐隊司令駆逐艦は「薄雲」から「朝雲」に戻った。 この間の5月12日、米軍はアッツ島に来襲して上陸を開始した。北方部隊や連合艦隊からの増援部隊は幌筵に進出・集結した。5月中旬から下旬にかけてアムチトカ島空挺奇襲作戦が検討され、アッツ島に対しては奇襲と強行輸送作戦(前衛部隊〈阿武隈、木曾、朝雲、薄雲、若葉、初霜、長波〉、輸送隊〈神風、沼風〉)が実施されたが、悪天候により5月28日輸送作戦中止に至った。第一水雷戦隊はアッツ島突入の機を伺っていたが、山崎保代陸軍大佐以下日本軍守備隊は5月29日に玉砕した(アッツ島の戦い)。一水戦は洋上で玉砕電を傍受し、幌筵へ帰投した。 日本軍はキスカ島からの撤退を決定して「ケ」号作戦を発動したが、最初に実施した潜水艦による第一期撤収作戦は損害が多く、作戦中止に至った。そこで水上部隊による第二期撤収作戦が立案される。6月1日時点で、「薄雲」は北方部隊の軍隊区分において水雷部隊に所属していた。6月6日、第一水雷戦隊司令官森友一少将は急病で倒れて退任する。ビスマルク海海戦で負傷し療養中だった木村昌福少将が、後任の第一水雷戦隊司令官となった。同6日夜、第1駆逐隊(神風、沼風)と第9駆逐隊(白雲、薄雲)が共同で対潜掃蕩を実施中、「沼風」と「白雲」が衝突する。「朝雲」と「若葉」が救援にかけつけた。損傷した「白雲」は幌筵に戻ったあと、続いて大湊に回航され、修理に従事することになった。 詳細は「キスカ島撤退作戦」を参照 7月上旬以降、第9駆逐隊(朝雲、薄雲)はキスカ島撤退作戦(ケ号作戦)に加わる。参加巡洋艦・駆逐艦はアメリカ艦艇と誤認させるための迷彩とカモフラージュを行った。7月7日以降の第二期第一次撤収作戦は同月15日に作戦中止命令が出され、主隊(那智、摩耶、多摩、野風、波風)・撤収部隊各艦は18日までに幌筵へ帰投した。7月22日、第五艦隊司令長官および第一水雷戦隊司令官指揮のもと、収容隊(阿武隈、木曾、響、朝雲、薄雲、秋雲、夕雲、風雲、第一警戒隊〈若葉、初霜、長波〉、第二警戒隊〈島風、五月雨〉)、主隊(多摩〔第五艦隊長官〕)、燃料補給部隊(海防艦国後、タンカー日本丸)という戦力が集結、幌筵を出撃した(第二期第二次撤収作戦)。7月26日には濃霧で衝突事故も起きたが、連合国軍との遭遇はなかった。7月29日、撤収部隊はキスカ島に突入、第一輸送隊(阿武隈、秋雲、夕雲、風雲)・第二輸送隊(木曾、朝雲、薄雲、響)ともキスカ将兵の撤収に成功した。各部隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ帰投した。撤収人員海軍2518名・陸軍2669名・遺骨30柱・合計5183名(もしくは5187名)が帰投、薄雲収容人数は478名と記録されている。ケ号作戦遂行のため派遣されていた増援の駆逐艦や潜水艦は任務を解かれ、内地にむかった。 キスカ島からの撤退により、日本軍は千島列島の防備強化に乗り出した。8月5日、日本海軍は第十二航空艦隊と第五艦隊により北東方面艦隊を新編した。第五艦隊麾下の各部隊・各艦は「北東方面部隊」として、引き続き千島列島や北海道周辺での作戦に従事した。同年9月1日、舞鶴海軍工廠での修理を終えた駆逐艦「霞」が第9駆逐隊に編入され、9駆は定数4隻(朝雲、霞、薄雲、白雲)を回復する。だが「朝雲」は10月31日附で第10駆逐隊に転出し、第9駆逐隊は3隻に減少した。司令駆逐艦は「霞」に変更された。11月8日付で、薄雲駆逐艦長は池田少佐から若杉周一少佐に交代した。
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