1942年と1943年の行動とは? わかりやすく解説

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1942年と1943年の行動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:58 UTC 版)

薄雲 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「1942年と1943年の行動」の解説

1942年昭和17年6月20日池田周作少佐薄雲駆逐艦長任命された。7月31日舞鶴海軍工廠における「薄雲」の修理完了同日、「薄雲」は第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将編入され北方部隊では主隊に編入された。8月5日舞鶴出発大湊経由し千島列島アリューシャン列島方面進出する8月11日、「薄雲」は第6駆逐隊(暁、、電、響)に編入される8月15日、「薄雲」は北方部隊護衛隊編入される。だが第6駆逐隊8月28日付で機動部隊所属となり、北方部隊指揮下を離れてガダルカナル島攻防戦投入された。「薄雲」は第21駆逐隊若葉初春初霜)に編入された。以後、「薄雲」は護衛部僚艦や、北方部隊所属巡洋艦と共に日本列島北東方面での海上護衛作戦哨戒活動アッツ島占領作戦等に従事した1943年昭和18年2月10日から、薄雲は呉で修理整備おこなった2月末に修理完了佐世保での修理終えた重巡洋艦那智」を護衛して北方戻り3月4日幌筵島到着したこの間アッツ島単独航行中輸送船アメリカ艦隊撃沈される「あかがね事件」が起き日本軍護送船団方式転換した。「薄雲」は第一水雷戦隊司令官指揮下で行動する場合、第6駆逐隊第3番艦として行動するよう発令されていた。3月7日薄雲を含む第一次輸送船団(主隊掩護部隊護衛隊輸送船団)は幌筵出撃3月10日アッツ島到着して輸送成功した3月22日16時アッツ島への輸送実施するため第二護衛部隊(薄雲、三興丸)は幌筵海峡出発した翌日には北方部隊輸送船団指揮官細萱戊子郎第五艦隊長官、主隊〈那智摩耶若葉初霜〉、護衛部隊〈阿武隈、電〉、輸送船浅香丸、崎戸丸〉)も出撃した。3月26日北方部隊第二護衛部隊(薄雲、三興丸)は合同失敗し細萱長官合同命令を出す。3月27日午前2時、主隊(第五艦隊)はコマンドルスキー諸島南方海域チャールズ・マクモリス少将率いアメリカ艦隊重巡1、軽巡1、駆逐艦4)と遭遇するアッツ島沖海戦)。単縦陣最後尾の「電」は『敵見ゆ』を報じたが、「阿武隈」は『三興丸、薄雲発見』と報告しばらくしてから敵艦隊と気づいた。アメリカ艦隊第二護衛部隊と誤認したことは第五艦隊関係者余裕奪いその後の戦闘大きな影響与えたとみられる3時55分、「薄雲」は190方向戦闘煙を発見し、「三興丸」を西方退避させると戦闘参加するため南下開始した北方部隊指揮官6時3分に「薄雲」と「浅香丸」へ幌筵帰投命じ7時25分にも「薄雲」に船団護衛帰投命じた海戦も、日米双方決定的戦果あげないまま7時30分終了した3月29日12時15分第二護衛部隊(薄雲、三興丸)は幌筵帰投した。北方部隊重巡内地戻り薄雲や一水戦幌筵残った3月30日駆逐艦「雷」と「若葉」の衝突事故発生し、2隻とも重巡護衛兼ねて横須賀回航された。輸送駆逐艦は「電」と「薄雲」に改められた。3月31日第五艦隊司令長官細萱中将から河瀬四郎中将変わった4月1日白雪駆逐艦4月1日附で初雪型駆逐艦改定)2隻(薄雲白雲)は、第9駆逐隊編入される。また4月1日付で実施され戦時編制改定により、第一艦隊から第一水雷戦隊第三水雷戦隊除かれ一水戦は制式第五艦隊隷下となった。第9駆逐隊第一水雷戦隊隷下となり、北方部隊編入された。 4月上旬から中旬にかけて、第五艦隊北方部隊)は駆逐艦「電」と「薄雲」によるアッツ島輸送計画実施したが、成功しなかった。アッツ島に対しては、潜水艦によって細々とした輸送が行われた(モグラ輸送)。山崎保代陸軍大佐も伊号第31潜水艦によりアッツ島上陸したこの頃ガダルカナル島攻防戦ニューギニア方面輸送作戦最前線奔走してきた第9駆逐隊満潮駆逐艦朝雲」は、5月下旬まで横須賀修理整備おこなった。「薄雲」(5月11日まで大湊修理)や「白雲」が臨時司令駆逐艦となった5月25日、第9駆逐隊司令駆逐艦は「薄雲」から「朝雲」に戻ったこの間5月12日米軍アッツ島来襲して上陸開始した北方部隊連合艦隊からの増援部隊幌筵進出集結した5月中旬から下旬にかけてアムチトカ島空挺奇襲作戦検討されアッツ島に対して奇襲強行輸送作戦前衛部隊阿武隈木曾朝雲薄雲若葉初霜長波〉、輸送隊神風沼風〉)が実施されたが、悪天候により5月28日輸送作戦中止至った第一水雷戦隊アッツ島突入の機を伺っていたが、山崎保代陸軍大佐下日本軍守備隊5月29日玉砕したアッツ島の戦い)。一水戦は洋上玉砕電を傍受し幌筵帰投した。 日本軍キスカ島からの撤退決定して「ケ」号作戦発動したが、最初に実施した潜水艦による第一期撤収作戦損害多く作戦中止至った。そこで水上部隊による第二期撤収作戦立案される。6月1日時点で、「薄雲」は北方部隊軍隊区分において水雷部隊所属していた。6月6日第一水雷戦隊司令官森友一少将急病倒れて退任するビスマルク海海戦負傷し療養中だった木村昌福少将が、後任第一水雷戦隊司令官となった。同6日夜、第1駆逐隊神風沼風)と第9駆逐隊白雲薄雲)が共同対潜掃蕩実施中、「沼風」と「白雲」が衝突する。「朝雲」と「若葉」が救援かけつけた損傷した白雲」は幌筵戻ったあと、続いて大湊回航され、修理従事することになった詳細は「キスカ島撤退作戦」を参照 7月上旬以降、第9駆逐隊朝雲薄雲)はキスカ島撤退作戦ケ号作戦)に加わる。参加巡洋艦駆逐艦アメリカ艦艇誤認させるための迷彩カモフラージュ行った7月7日以降第二期第一次撤収作戦同月15日作戦中止命令出され、主隊(那智摩耶多摩野風波風)・撤収部隊各艦は18日までに幌筵帰投した。7月22日第五艦隊司令長官および第一水雷戦隊司令官指揮のもと、収容隊(阿武隈木曾、響、朝雲薄雲秋雲夕雲風雲第一警戒隊〈若葉初霜長波〉、第二警戒隊〈島風五月雨〉)、主隊(多摩第五艦隊長官〕)、燃料補給部隊海防艦国後タンカー日本丸)という戦力集結幌筵出撃した(第二期第二次撤収作戦)。7月26日には濃霧衝突事故起きたが、連合国軍との遭遇はなかった。7月29日撤収部隊キスカ島突入第一輸送隊阿武隈秋雲夕雲風雲)・第二輸送隊木曾朝雲薄雲、響)ともキスカ将兵撤収成功した各部隊7月31日から8月1日にかけて幌筵帰投した。撤収人員海軍2518名・陸軍2669名・遺骨30合計5183名(もしくは5187名)が帰投薄雲収容人数478名と記録されている。ケ号作戦遂行のため派遣されていた増援駆逐艦潜水艦任務解かれ内地むかったキスカ島からの撤退により、日本軍千島列島防備強化乗り出した8月5日日本海軍第十二航空艦隊第五艦隊により北東方面艦隊新編した。第五艦隊麾下各部隊・各艦は「北東方面部隊」として、引き続き千島列島北海道周辺での作戦従事した同年9月1日舞鶴海軍工廠での修理終えた駆逐艦」が第9駆逐隊編入され、9駆は定数4隻(朝雲薄雲白雲)を回復する。だが「朝雲」は10月31日附で第10駆逐隊転出し、第9駆逐隊は3隻に減少した司令駆逐艦は「」に変更された。11月8日付で、薄雲駆逐艦長池田少佐から若杉周一少佐交代した

※この「1942年と1943年の行動」の解説は、「薄雲 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
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