1942年から1946年まで:日英軍政下のシンガポール
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「シンガポール法」の記事における「1942年から1946年まで:日英軍政下のシンガポール」の解説
第二次世界大戦の最中、シンガポールは1942年2月15日に日本の軍政下となった。立法権の所在については大きな混乱が生じた。法令を制定する権限を有する政府または軍の機関が複数あったためである。権限の強いものの順に、南方軍総司令部、第25軍司令部、軍政総監部、マライ軍政監部および昭南特別市の市役所があった。数多くの法令や通達が、通常の指揮系統によらずに、これらの機関から昭南特別市を通じて発せられた。これらの法令はしばしば矛盾するものであり、階層において上級の機関のものが常に優先した。 日本軍によるシンガポール占領が開始した時点で、存在する全ての裁判所が機能を停止した。1942年4月7日に軍律等を適用するための軍事裁判所が設置され、同年5月27日の布告により通常の裁判所が再開された。当該布告は、従来のイギリス由来の法の全てが、軍政を阻害しない限度で適用されるものとした。最上級裁判所は昭南高等法院(Syonan Supreme Court)であり、これは5月29日に開設された。控訴院は設置されはしたものの一度も開廷されなかった。 日本占領下の裁判所により言い渡された判決の位置づけについては、若干の争いがある。占領終了後の裁判所の中には、日本の裁判所による法適用の判断は有効であるとするものがある。他方で、日本の当局は海峡植民地法に従って裁判所を設置しなかったため、法は引き続き適用されるとはいえ、それを執行する適切な裁判所が存在していなかったとするものもある。 日本は1945年9月12日に降伏した。布告第1号(1945年)(Proclamation No. 1 (1945))により、連合軍の東南アジア最高司令官(Supreme Allied Commander of South East Asia)がイギリス軍政部(マラヤ)(British Military Administration (Malaya))を設置し、これが、その司令部隷下の部隊の支配下にあるマラヤ全域にわたる完全な司法、立法、執行および行政の権限および責任ならびに人および財産に対する包括的な管轄権を引き継いだ。当該布告はさらに、全ての日本軍占領直前に存在した法と慣習の全てが尊重されることになるが、首席民事官(Chief Civil Affairs Officer)が軍政期間においては行政上実用的と考える現行法は例外とされた。そうでない限り、日本軍政当局の権限によるいかなる布告も立法も効力を失うものとした。 布告第23号(1945年)により、シンガポール部担当副首席民事官(Deputy Chief Civil Affairs Officer for the Singapore Division)は日本軍政当局により設置された裁判所による有罪判決は全て破棄され、いかなる人または犯罪についてのものであれ有罪を宣告しまたはそれを意図するあらゆる判決は退けられるものとした。民事手続について、1946年日本判決・民事手続布令(Japanese Judgments and Civil Proceedings Ordinance 1946)(No. 3 of 1946)により、占領終了後の裁判所が日本の裁判所の判決を見直した上でそれを確認し、変更し、または覆すことが許容された。
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