1942年8月 コーカサス戦線
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「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「1942年8月 コーカサス戦線」の解説
1942年夏、ドイツ軍がソビエト連邦南部への攻勢作戦(ブラウ作戦)を開始すると、第373ワロン歩兵大隊も7月初旬にドネツ川を越えてコーカサス地方のノヴォ=アストラハンへ向かった。8月4日に大隊はクバン(Kuban / Кубань)川を渡り、13日には大隊の主要部隊がマイコプへ到着した。この間、大隊は戦闘を経験しなかったが、800キロメートルに渡る長距離行軍と夏の高い気温、さらに風土病が相まって大隊の戦闘可能戦力は500名前後に低下していた。 1942年8月26日、第97猟兵師団から第373ワロン歩兵大隊に対し、チェリャコフ(Tcherjakow / Tcheriakoff)村周辺の斥候命令が下った。この戦闘でワロン人大隊はソビエト赤軍の迫撃砲によって多数の損害を出しつつも、最終的には敵部隊の掃討に成功した。 1942年9月17日、コーカサス地方のシャディシェンスカヤ(Schadyschenskaja)において、レオン・デグレルはSS「ヴィーキング」師団指揮官のフェリックス・シュタイナーSS中将(SS-Gruf. Felix Steiner)と会見した。この会見によってデグレルは、大戦を長期的に捉えた場合、ワロン人部隊をさほど重要視していない国防軍よりも武装親衛隊に所属した方が一層の権力を掌握できると理解した。 ただし、ワロン人が武装親衛隊に籍を置くには、非ゲルマン人は入隊させないという武装親衛隊側の民族的な障害を乗り越える必要があった。そのため、デグレルはフランツ・ペトリ博士(Dr. Franz Petri)が1937年に発表した論文「ワロンおよびフランス北部におけるゲルマン人の血統」(Germanisches Volkserbe in Wallonien und Nordfrankreich)を根拠に、「ワロン人はゲルマン人である」とフランス語で主張した。また、1942年10月25日にはデグレルの手紙を受け取ったベルギー本国のレクシズム代理党首によって、ベルギー国内でも同様の宣言がなされた。 1942年11月11日、第373ワロン歩兵大隊は後衛部隊を残して前線から引き揚げられたが、その時点で大隊の戦闘可能戦力は1941年8月以来の将校5名、下士官33名、兵170名にまで減少していた。なお、テレク(Terek / Терек)、クバン地方に残っていた後衛部隊は1943年2月にクリミア半島へ空路後退した。 その後、第373ワロン歩兵大隊は再編制のためメゼリッツの兵舎へ帰還した。そして、コーカサス戦線の期間中、ドイツ第97猟兵師団に所属して戦った大隊の古参兵には山岳猟兵の象徴であるエーデルヴァイスの帽章と袖章の着用が許可された。
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1942年8月 コーカサス戦線
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「ジャック・ルロア」の記事における「1942年8月 コーカサス戦線」の解説
1942年夏、ドイツ軍がソビエト連邦南部への攻勢作戦(ブラウ作戦)を開始すると、第373ワロン歩兵大隊の一員であるルロアもコーカサス地方への長距離行軍、それに続く戦闘を経験した(この戦線の期間中、ルロアは何名かの戦友の死を目撃した)。
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