1942年のレニングラード
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「レニングラード包囲戦」の記事における「1942年のレニングラード」の解説
レニングラードは冬季の包囲戦を耐え抜いたが、依然戦況は絶望的だった。守備軍は栄養不足に苦しみ、赤痢が流行、規律と士気は最低となり、兵士たちの状態は極めて劣悪となっていた。モスクワでの勝利に自信を得たスターリンは全戦線での反撃に転じ、レニングラード解放を目指す攻勢を開始した。しかし兵力と補給を欠いた攻勢は失敗に終わり、ウラソフ中将が指揮する第2突撃軍が包囲された。一方ドイツ軍はモスクワ方面での敗北により、司令官達が一斉に更迭された。レープ元帥も更迭となり、第18軍司令官キュヒラー上級大将が北方軍集団司令官に就任した。キュヒラーはバルト艦隊の火力が、レニングラード防衛の要になっていることを見抜き、バルト艦隊を標的とする航空作戦を開始した。1942年4月4日、大規模な戦闘機と爆撃機の編隊が、バルト艦隊を強襲し、戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻を無力化した。5月には包囲した第2突撃軍を殲滅、ウラソフ中将を投降させた。1942年6月上旬、ホージン中将が更迭され、ゴヴォロフ中将がレニングラード方面軍司令官に就任した。砲兵の権威であるゴヴォロフは、兵士の高い死傷率は適切な砲兵支援を欠いたからだと考え、砲兵火力の集積に全力を注いだ。観測所を複数設置し、装備弾薬を大幅に増強、砲兵隊の打撃力を強化した。またゴヴォロフは、レニングラード市内の交響楽団を全面的に支援した。孤立した都市では、交響楽団の演奏が兵士や市民の心の支えになっていた。その事をよく心得ていたゴヴォロフは、演奏を妨害するドイツ軍の砲撃に対する予防措置として、突風作戦を開始、演奏前にドイツ軍の砲兵陣地を徹底的に砲撃で叩いた。また市内にスピーカーを設置し、兵士が演奏の中継を聞けるようにした。ゴヴォロフの取り組みは、兵士の士気を劇的に回復させた。1942年8月、クリミア半島を落としたマンシュタイン元帥の増援部隊がレニングラードに到着した。マンシュタインは空軍と砲兵の総力を挙げて、赤軍の前線陣地を叩き、凍結したラドガ湖の補給路を完全に遮断する計画を立てた。スタフカはゴヴォロフ軍にラドガ湖方面で攻勢を実施させ、マンシュタインの攻勢を牽制する計画で対応した。ゴヴォロフはドイツ軍陣地を2時間砲撃した後、ラドガ湖方面で東に布陣していた赤軍部隊との合流を試みた。封鎖打破の危険性を察知した国防軍最高司令部は狼狽し、ヒトラーはマンシュタインに攻勢を中止し、ゴヴォロフ軍の撃退を命じた。スタフカの作戦は成功し、マンシュタインは攻勢中止を余儀なくされた。ゴヴォロフも攻勢開始地点に後退したが、作戦の成功は赤軍の兵士達に大きな自信を与えた。ゴヴォロフはレニングラード解放の鍵は、ドイツ軍の砲兵陣地を狙った正確な対砲兵射撃にあると考えていた。そのためには巧妙に隠された、ドイツ軍砲兵陣地の正確な場所を把握する必要があった。そこでゴヴォロフは囮を使い、北方軍集団司令部、飛行場、鉄道駅を標的とする奇襲砲撃を実施した。ドイツ軍砲兵隊は即座に応戦し、16の砲兵陣地が一斉に火を噴いた。しかしドイツ軍砲兵の反撃は、砲兵陣地の正確な位置を見事にさらけだした。 上記のように1942年の赤軍の数回の攻勢はいずれも失敗に終わり、一方のドイツ軍の攻勢計画も頓挫した。このため両軍とも大きな損害を出したものの、戦線に大きな変化は生じなかった。
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