軍政期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 03:01 UTC 版)
「ルドゥ・ドゥ・アマー」の記事における「軍政期」の解説
ルドゥ日報は1967年7月7日に軍事政権によって閉鎖された。同紙は平和と社会主義社会を公然と擁護しており、1950年代の内戦初期に行われたように1963年のネ・ウィンの革命評議会政府と共産主義者や民族的な様々な反政府勢力との間で行われた和平交渉を強く支持していた。和平交渉が決裂した時に、アマーの長男のソエ・ウィン(Soe Win、1941年生)は22歳のラングーン大学(英語版)の学生リーダーで、ビルマ共産党に参加するために他の数人とと共に地下に潜った。彼は1967年にバゴー・ヨマ山地のジャングルで行われた血なまぐさい粛清の中で、ビルマ共産党が独自の文化革命を行った際に殺された。死に対するビルマ仏教の態度に忠実なルドゥ夫妻は、彼らの長子のジャングルの墓所への当局からの招待を断った。彼らの次男、ポー・サン・ギャウン(Po Than Gyaung、1945年生)も1966年7月に21歳でラングーン大学(英語版)での秘密の学生の政治活動の容疑で逮捕され、1972年5月まで、起訴も裁判もなしに拘留された彼は拘留の一部をマンダレー刑務所で過ごし、のちにアンダマン海のココス島流刑地で過ごした。 夫妻は初期の頃からネ・ウィンに個人的に知られており、ネ・ウィンはマンダレーを訪れるたびに彼らのところにしばしば電話をかけた。夫妻は執筆、研究、文学セミナーの開催、講演、国内政治以外の資料の出版を続け、社会問題や地域問題に積極的に取り組んだ。1975年に夫妻は同年の大地震で被害をうけたバガンの寺院の再建に参加しているマンダレーとラングーンの両方の大学生に話をするという政府の招待を受け入れた。アマーは人々から「名前からしてタフ、性質からしてもタフ」と形容されるようになった(amar はビルマ語で「タフ/頑健な」の意)。
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