軍政部軍事調査部
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1933年(昭和8年)5月31日、関東軍と中国軍との間で締結された塘沽協定により満州事変停戦が成立し、満州国の領土が確定したが、その後も満ソ国境紛争が絶えなかったため、関東軍は満州国軍政部に対して、約4,000キロメートルに及ぶ満ソ国境全線の兵要地誌調査を命じ、4班の調査隊が編成された。艦政課から軍事調査部に転じ、調査隊第2班の班長となった佐々木は、1937年(昭和12年、康徳4年)6月19日の乾岔子島事件勃発当日、興凱湖を起点に、烏蘇里江を北上、その後虎頭(虎林)、饒河、撫遠等を経て、黒竜江に入り、これを遡航して黒河に達し、40数日に及ぶ危険な調査任務を無事完了させた(調査隊第1班は班長の法亢盛孝陸軍上尉以下全員が戦死を遂げた)。調査結果は、張鼓峰事件、ノモンハン事件と続く関東軍の対ソ作戦計画に使用された。 その後、1938年(昭和13年)6月、佐々木以下数名がハルピンを出航し、松花江を下り、同江-漠河間を往復調査し、第2回調査を完了させた。途中、匪賊の襲撃や、護衛の砲艇「恩民」の破壊事件なども発生した。 同年11月15日の駐満海軍部廃止に伴い、佐々木は満州国軍政部を辞職し、満州を引き揚げた。日本海軍の満州国撤収は日本陸軍との対立が原因とされており、「江防艦隊」は満州国陸軍に編入、「江上軍」として改組され、関東軍から軍事顧問を送り込んだが、士気も戦力も著しく低下した。
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