満ソ国境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
北東アジアの満州地域の対ソ国境については、満州国建国以前から領土問題が存在していた。清とロシア帝国の間のアイグン条約・北京条約などで国境は画定されていたが、中華民国はこれらは不平等条約であるとして改正を求めてきていた。うちアムール川(黒竜江)は水路協定も1923年に中ソ間で締結されたが、これも中国に不利な内容であったため問題となっていた。 1933年1月、日本はソ連に対し国境紛争処理に関する委員会設置を提案。しかし、ソ連はアイグン条約などで国境は確定済みとの立場であった。また、日本が不可侵条約提案を拒絶していたことや、北満鉄路売却問題が優先事項であったことなども影響し、委員会設置は実現しなかった。 満州国南西部の中華民国との国境でも1934年末から紛争が起きており、日本は緩衝地帯設置などを意図した華北分離工作を展開した。
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