清とロシア
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東方進出を進めるロシアは17世紀中頃から満洲地域で清と衝突した(清・ロシア国境紛争)。ロシアはヤクーツクを中心とするレナ川流域を支配下に置いて先住民から毛皮などを取り立てていたが、次第に農業に適した南のアムール川に関心を示し始めた。1640年代からヴァシーリー・ポヤルコフやエロフェイ・ハバロフなどロシア人の探検隊が、ゼヤ川やアルグン川からアムール川に南下し、アルバジンなどの要塞を構え、先住民から毛皮を徴収したり農村を焼いたりするなど入植の動きを見せた。このため清と李氏朝鮮の連合軍は本格的に討伐を行い、アルバジン要塞も陥落した。1689年のネルチンスク条約で清とロシアの間には国境が画定され、外満洲は清の領土となりロシアは排除された。 しかし清の弱体後、ロシアは太平洋への出口を求めてアムール川や日本海沿岸への進出を図るようになる。19世紀半ばに東シベリア総督となったニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、清との摩擦を恐れる政府官僚の抵抗を押し切り、アムール川河口に前哨を設けたほか船隊を組んでアムール川を探検させるなどアムール左岸の獲得をめざして行動した。また彼は皇帝ニコライ1世から清との国境交渉に関する全権大使に任命され、ますますアムール流域への圧力を強めた。ムラヴィヨフの交渉により、1858年のアイグン条約でアムール川以北が、1860年の北京条約でウスリー川以東が、清からロシアに割譲され外満洲はすべてロシア領となった。ロシアは新しい領土で不凍港ウラジオストクなどを開発し、外満洲はロシアのアジア支配の拠点となっていった。しかし例外的に、現在の黒龍江省黒河市から見てアムール川の対岸一帯にある清朝居民の居留地、広さ3,600平方キロメートルほどの「江東六十四屯」はロシア領ながら清による管理が認められた。 1900年、義和団の乱(北清事変)の際、清とロシアは満洲を巡っても衝突した。6月に義和団が黒河対岸のブラゴヴェシチェンスク(海蘭泡)を占領したことの報復としてロシア軍は7月、江東六十四屯を襲い占領し、居住していた清国民少なくとも3,000人以上(資料によっては2万人以上)をアムール川に追い込んで虐殺するという事件が発生した。この事件と、これに続くロシアの東三省(内満洲)一時占領は日本での対ロシア警戒感を高め、江東六十四屯の崩壊は『アムール川の流血や』という旧制第一高等学校の寮歌にも歌われている。内満洲も、東清鉄道や南満洲鉄道といったロシアによる鉄道が建設され、鉄道周囲に鉄道付属地という名の治外法権地域が作られ、旅順がロシアの租借地・軍港となるなど、ロシアの半植民地となっていった。これを朝鮮における権益への脅威と受け取った日本との衝突(日露戦争)の結果、ロシアは後退し、代わって日本がこれらの権益を手中に収める。 この後成立した中華民国政府や北洋軍閥は江東六十四屯の占領を認めず、外満洲全体についても「前政権の清王朝が結んだ不平等条約によって割譲されたもので、これらの侵略的な条約は破棄されるべきである」としてロシア領土となったことを認めなかった。またロシア帝国が倒れ、レーニン指導下のソ連が誕生した直後の1919年、ソ連は中国に「帝政ロシアの中国に対するすべての不平等条約は廃止されるべきだ」との宣言を行い、中国側に領土返還の一縷の希望を残した。しかし1924年の中ソの新条約交渉時、帝政ロシアの結んだすべての条約類を廃止するとした条項が用意されたものの、ソ連代表の帰国により締結には至らなかった。また後に登場したヨシフ・スターリンは不平等条約廃止の宣言を否認し、中国への領土返還を拒否した。
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清とロシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:29 UTC 版)
清朝は反乱の鎮圧のためにロシア帝国に援助を求めた。しかしロシアの態度は曖昧だった。駐清公使のウランガリは要請を完全に拒絶することは露清関係に悪影響をもたらすと報告した。一方で中央アジアに駐屯する将軍たちはもし蜂起が成功してムスリム国家が成立した場合、清を援助することは新たな隣国との関係によくないと考えた。結局、ロシアは清軍のシベリア通過と恵遠城の守備隊への穀物の売却を認めたが、それ以上の援助は行わないと決定した。ロシアにとっての最優先事項は清との国境を維持し、反乱がロシア国内に波及することを防ぐことにあった。 1865年2月、セミレチエ州駐屯軍のゲラシム・コラパコフスキーは攻撃は最大の防御と考え、国境を越えて東トルキスタンを植民地とすべきと主張したが、外務大臣のアレクサンドル・ゴルチャコフはそのような違反行為を行えば清が反乱を回復した際に悪影響を及ぼすとして却下した。 その間、清軍にとって情勢は悪化していった。1865年4月、恵寧城が蜂起軍の手に落ち、満州人・シベ族・エヴェンキからなる8千人の守備隊は虐殺された。恵遠城の大部分は1866年1月8日までに蜂起軍の手に落ちた。食糧が尽きた明緒は降伏を申し出た。明緒は銀と茶を供出することで、生命と清朝への忠誠の維持の保障を得ようとした。しかし蜂起軍はムスリムへの忠誠を要求したため、明緒は交渉を打ち切らざるを得なかった。3月3日、城砦に蜂起軍が侵入し、明緒は邸宅を爆破して家族や部下とともに自殺した。こうしてイリ地方は清朝の手から離れた。
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