清とロシアとは? わかりやすく解説

清とロシア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 02:08 UTC 版)

外満洲」の記事における「清とロシア」の解説

東方進出進めロシア17世紀中頃から満洲地域で清と衝突した清・ロシア国境紛争)。ロシアヤクーツク中心とするレナ川流域支配下置いて先住民から毛皮などを取り立てていたが、次第農業適した南のアムール川関心示し始めた1640年代からヴァシーリー・ポヤルコフエロフェイ・ハバロフなどロシア人探検隊が、ゼヤ川アルグン川からアムール川南下しアルバジンなどの要塞構え先住民から毛皮徴収した農村焼いたりするなど入植動き見せたこのため清と李氏朝鮮連合軍本格的に討伐行いアルバジン要塞陥落した1689年ネルチンスク条約で清とロシアの間には国境画定され、外満洲は清の領土となりロシア排除された。 しかし清の弱体後、ロシア太平洋へ出口求めてアムール川日本海沿岸への進出を図るようになる19世紀半ば東シベリア総督となったニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーは、清との摩擦恐れ政府官僚抵抗押し切りアムール川河口前哨設けたほか船隊組んでアムール川探検させるなどアムール左岸獲得めざして行動した。また彼は皇帝ニコライ1世から清との国境交渉に関する全権大使任命され、ますますアムール流域への圧力強めたムラヴィヨフ交渉により、1858年アイグン条約アムール川以北が、1860年北京条約ウスリー川以東が、清かロシア割譲され外満洲はすべてロシアとなったロシア新し領土不凍港ウラジオストクなどを開発し外満洲ロシアアジア支配拠点となっていった。しかし例外的に現在の黒龍江省黒河市から見てアムール川対岸一帯にある清朝居民居留地広さ3,600平方キロメートルほどの「江東六十四屯」はロシア領ながら清による管理認められた。 1900年義和団の乱北清事変)の際、清とロシアは満洲巡って衝突した6月義和団黒河対岸ブラゴヴェシチェンスク海蘭泡)を占領したことの報復としてロシア軍7月江東六十四屯襲い占領し居住していた清国少なくとも3,000人以上(資料によっては2万人以上)をアムール川追い込んで虐殺するという事件が発生した。この事件と、これに続くロシア東三省内満洲一時占領日本での対ロシア警戒感高め江東六十四屯崩壊は『アムール川の流血や』という旧制第一高等学校寮歌にも歌われている。内満洲も、東清鉄道南満洲鉄道といったロシアによる鉄道建設され鉄道周囲鉄道付属地という名の治外法権地域作られ旅順ロシア租借地軍港となるなど、ロシア半植民地となっていった。これを朝鮮における権益への脅威受け取った日本との衝突日露戦争)の結果ロシア後退し、代わって日本がこれらの権益手中に収めるこの後成立した中華民国政府北洋軍閥江東六十四屯占領認めず外満洲全体についても「前政権清王朝結んだ不平等条約によって割譲されたもので、これらの侵略的な条約破棄されるべきである」としてロシア領土となったことを認めなかった。またロシア帝国倒れレーニン指導下のソ連誕生した直後1919年ソ連中国に「帝政ロシア中国対すすべての不平等条約廃止されるべきだ」との宣言行い中国側領土返還一縷の希望残した。しかし1924年の中ソの新条交渉時、帝政ロシア結んだすべての条約類を廃止するとした条項用意されたものの、ソ連代表の帰国により締結には至らなかった。また後に登場したヨシフ・スターリン不平等条約廃止宣言否認し中国への領土返還拒否した

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清とロシア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:29 UTC 版)

ヤクブ・ベクの乱」の記事における「清とロシア」の解説

清朝反乱の鎮圧のためにロシア帝国援助求めた。しかしロシア態度曖昧だった駐清公使のウランガリは要請を完全に拒絶することは露清関係に悪影響もたらす報告した一方で中央アジア駐屯する将軍たちはもし蜂起成功してムスリム国家成立した場合、清を援助することは新たな隣国との関係によくない考えた結局ロシアは清軍のシベリア通過と恵遠城の守備隊への穀物売却認めたが、それ以上援助行わない決定したロシアにとっての最優先事項は清との国境維持し反乱ロシア国内波及することを防ぐことにあった1865年2月セミレチエ州駐屯軍のゲラシム・コラパコフスキーは攻撃最大防御考え国境越えて東トルキスタン植民地とすべきと主張したが、外務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフそのような違反行為行えば清が反乱回復した際に悪影響を及ぼすとして却下したその間、清軍にとって情勢悪化していった。1865年4月、恵寧城蜂起の手落ち満州人シベ族エヴェンキからなる8千人守備隊虐殺された。恵遠城の大部分1866年1月8日までに蜂起の手落ちた食糧尽きた明緒は降伏申し出た。明緒は銀と供出することで、生命清朝への忠誠維持保障得ようとした。しかし蜂起軍はムスリムへの忠誠要求したため、明緒は交渉打ち切らざるを得なかった。3月3日城砦蜂起軍が侵入し、明緒は邸宅爆破して家族部下とともに自殺した。こうしてイリ地方清朝の手から離れた

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