太平洋へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:40 UTC 版)
「グレート・ノーザン鉄道」の記事における「太平洋へ」の解説
1890年8月、パシフィック・エクステンションの工事を開始する。西海岸の各都市はすでにそれぞれの経済圏を作りあげており、各都市を結ぶ鉄道は新たな大陸横断鉄道との接続を望んでいた。それらの鉄道が、UP、NPといった他の大陸横断鉄道とどのように連携しているかも見極める必要があった。そのため、ヒルは終点をシアトルと定めていたが、その計画は明かさなかった。1893年1月7日に開業してもまだ明かさず、公式にシアトルが終点であると表明したのは1900年であった。ターミナル駅の完成は1906年であった。 シアトルは、1889年に州に昇格したワシントン州の主要都市の一つでありながら、鉄道との接続がなかった。なおオレゴン州ポートランドには、UPとNPが乗り入れていた。 シアトルに到達したら、必要なのは北上してCPRと接続するルートと、南下してポートランドに向かうルートである。ヒルは、北上する160マイルのルートをニュー・ウェストミンスター・アンド・サザン鉄道を買収して建設し、1891年にはすべての準備を終わっていた。南下するルートは、UPと共同で建設することとした。UPの系列下のオレゴン・ショート・ライン、ユタ・アンド・ノーザン鉄道とGNが共同でピュージェット・サウンド・アンド・ポートランド鉄道を買収して建設させた。その間、1893年にはUPが倒産するなどして、それがGNとUPの関係を深めることとなった。 1893年1月7日、大陸横断鉄道としてセントポールとシアトルの間で貨物営業を開始した。ヒルは、これをもって路線建設の終了を宣言した。しかし、開通してもとくに輸送品がなく、そのような状況の中でUPやNPとの対抗上、運賃を低く抑えた。UP、NPは、さらにそれに対抗していく。そうこうするうちに悪循環に陥り、1893年恐慌により、UPとNPが破産した。それでもなお、ダンピング競争は続き、1890年当時の約4分の1にまで値下がりした1894年末になってようやく3社の運賃協定が成立した。 NPの破産後は、650万ドルの社債を保有するドイツ人投資家グループの主導で再建が進められた。その中で指摘されたのが、NPの経営の拙さであった。1895年には、NPの再建管理側3名と、GNからヒル、スティーブンら3名とでロンドン協約(London Agreement)を締結し、1900年、GNはNPの経営を握ることになった。
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