太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズ時代
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「真弓明信」の記事における「太平洋クラブライオンズ・クラウンライターライオンズ時代」の解説
1973年5月5日の対日拓ホームフライヤーズ戦(平和台野球場)で、9回裏に遊撃手の守備固めとしてプロ初出場。守備機会はなかった。5月15日の対阪急ブレーブス戦でも9回裏から遊撃手の守備固めとして出場するも、2つのエラー(記録上は、1つは内野安打)を喫し、翌日二軍落ちする。同年7月よりおよそ3か月間、アメリカの1A・ローダイ・ライオンズに留学する。このアメリカ留学で、当時日本ではそれほど行われていなかったウエイトトレーニングを練習に加えるようになった。 1974年から背番号が42に変更される。本人は、スポーツ新聞の記事でこのことを知った。同年は、23試合に出場しプロ初安打を放った。 1975年に当時の監督江藤愼一から打撃の才能を見い出され、一軍定着を果たす。同年にはプロ初本塁打・初打点を挙げている。フロントはキャンプでの成果によっては解雇するつもりだったとされるが、それを聞いた江藤が「磨けば光るダイヤモンドをどぶに捨てるのか」と球団に抗議して残留となった。 1977年に、福本豊の使うタイプのバット(いわゆるタイ・カッブ式)を使用するようになる。同年は主に中堅手として70試合に先発出場を果たす。同年のシーズン後に結婚。後に、3人の娘を授かっている。 1978年には、5月から一番打者、遊撃手に定着、初の規定打席(リーグ18位、打率.280)に到達する。同年は、オールスターゲームに初選出され、遊撃手のベストナインにも選ばれた。
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