太平洋クラブライオンズ監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 03:25 UTC 版)
「レオ・ドローチャー」の記事における「太平洋クラブライオンズ監督」の解説
1976年には太平洋クラブライオンズがドローチャーを監督に招聘(しょうへい)。契約までこぎつけたものの、直後に病気で倒れ、結局来日することはなかった。用意されていた背番号は2。 ドローチャーの招聘をライオンズのフロントが発表した時、日本の野球ファンや野球マスコミからは驚きの声が上がったものの、一方で「はったりではないか」という疑問の声も上がっていた。果たしてドローチャーの来日は実現しなかったために、マスコミから「話題作りではないか」と批判の声が上がった。当時太平洋クラブの選手だった真弓明信は2012年に「ドローチャーの時は最高やったね。キャンプになっても監督が来ないんだから。で、ある時、監督から話があるからということで、選手が集められて行ってみると、そこにはテープレコーダーだけが置いてあって、英語で何かバーッとしゃべってさ。テープの声を聞いただけで、おじいちゃんだってわかるぐらいの年寄り」「こんな言い方したら悪いけど、初めから鬼頭さんが監督をしとったら、話題性がないんで、ドローチャーの名前を使ったんじゃないかのかなぁ」と語っている。しかし、オーナーの中村長芳や、青木一三、坂井保之らは強く否定しあくまで「病気のために来日断念となった」と主張した。メジャーリーグ通の伊東一雄はこのドローチャーとライオンズの契約書を坂井から見せられ、それは紛れもないドローチャーの署名と共に年俸5万ドルとあったという。 後任監督はヘッドコーチの鬼頭政一が就任したが、太平洋クラブはこのドタバタ劇もあってチームの士気が上がらず最下位に転落した。 なおドローチャーはこの時71歳で、生まれた1905年は日本の元号にして明治38年で、1976年当時明治生まれの監督、コーチはすでに各球団から姿を消していた(当時の球界最高齢は1912年〈大正元年〉生まれで64歳の阪急・西村正夫2軍監督)。
※この「太平洋クラブライオンズ監督」の解説は、「レオ・ドローチャー」の解説の一部です。
「太平洋クラブライオンズ監督」を含む「レオ・ドローチャー」の記事については、「レオ・ドローチャー」の概要を参照ください。
- 太平洋クラブライオンズ監督のページへのリンク