清による黒竜江域支配の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 19:42 UTC 版)
「清露国境紛争」の記事における「清による黒竜江域支配の試み」の解説
ホンタイジは黒竜江付近にもたびたび兵を派遣した。住民らを捕らえて連れ帰り、あるいは現地にとどめて貂などの毛皮を貢納させた。 1639年12月から1640年5月にかけて、先住民と清の間で初の戦闘であるグアラルの戦い(ロシア語:селение Гуалар)が起こる。清の2連隊に対し、ボムボゴルBombogor(英語版)、Бомбогор(ロシア語版)(博木博果爾もしくは博穆博果爾)率いるエヴェンキ族・ダウール族連合軍の500人の分遣隊が戦った。他の先住民の頭領であるバルタチ(巴爾達斉もしくは巴爾達奇)は中立を貫いた。1640年9月にはヤクサ(雅克薩、のちのアルバジン)の戦いで、先住民(ソロン族・エヴェンキ族・オロチョン族)と清が戦った。1643年5月には3度目の戦闘が行われ、先住民族は清に降伏した。 1643年にはホンタイジが死去し、三代目皇帝順治帝(在位1643年‐1661年)が6歳であとを継いだ。摂政にはドルゴンとジルガランが立った。1644年に清は北京を落とし、順治帝は北京に移った。
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