清と近隣諸国・諸民族とは? わかりやすく解説

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清と近隣諸国・諸民族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:22 UTC 版)

冊封」の記事における「清と近隣諸国・諸民族」の解説

琉球王国日本による琉球処分琉球藩設置に際して清に朝貢続けるが最終的に尚泰王追放され王国滅亡沖縄県設置至り朝貢関係は廃止となる。 史上最後朝貢使はネパールから清朝派遣されたもので、 光緒32年1906年) - 6月1日付で「稟」を送り、「朝貢品」を携えて「陽布」(カトマンズ)を発足したことを清朝通知光緒33年1907年) - ラサに駐紮している清蔵大臣聯豫は正月16日付で北京報告同年ネパール朝貢使、北京入り光緒34年1908年) - 8月16日北京出立宣統元年1909年) - 7月27日チベット到着同年12月11日チベット発って帰国宣統2年1910年) - 四川総督趙爾豊蜀軍率いて1905年から四川の西隣に隣接するチベット諸侯土司)たちの征服着手していたのがついにラサまで到達チベット政府ガンデンポタンラサ占領した蜀軍双方から情報収集したネパール王、蜀軍援軍申し出る同年夏、皇帝名義で、ネパール王の恭順姿勢はほめるべきものだが、援軍不要コメント宣統3年1911年) - ネパールの貢期は「五年一貢」であるが、次の朝貢使がチベットから四川省経由中国入り目指した。その途上清朝からの独立目指すチベット軍と、このとき四川からラサまでのルート制圧していた蜀軍四川省)との戦闘勃発巻き込まれネパール朝貢使が立ち往生している間に、1912年清朝滅亡した

※この「清と近隣諸国・諸民族」の解説は、「冊封」の解説の一部です。
「清と近隣諸国・諸民族」を含む「冊封」の記事については、「冊封」の概要を参照ください。

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