清による占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)
1755年、清の乾隆帝は康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始する。 1757年2月、乾隆帝はオイラート人の掃滅(絶滅)命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられた。1759年、ジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収した。 清朝政府は、1762年、天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷いた。ウイグル族の住むこの地域は清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、もしくは「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)と呼ばれた。その一方、ムスリム社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「ベグ官人制」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存された。 このベグ官人制は1884年の新疆省まで存続した。こうしたペグ制度の復活については、「柔構造的支配」の現れとして、清朝が満洲人による政府であり、漢人ではない「異民族」として自らを意識したうえで、チベット・モンゴル・ウイグル(新疆)との間に「多重文明圏」を形成し、華夷秩序に基づく支配構造ではなく、むしろ対等な文明共存関係であり、「柔構造」を有していたとされる。なお、イリ将軍府は辛亥革命後に廃止されている。 ジュンガルを継承した清朝も1760年以降イリ地方などへ強制移住(入植)を数度にわたって行っている。1764年には満洲のシベ兵士が新疆辺境守備を命じられ移住した。
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