洪鈞とは? わかりやすく解説

洪鈞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:07 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

洪 鈞(こう きん、Hong Jun1839年 - 1893年)は、末の外交官・歴史学者。字は陶士、号は文卿

江蘇省蘇州府呉県出身。1868年状元となり、翰林院修撰、兵部侍郎、内閣学士を歴任した。1887年ドイツロシアオーストリアオランダ公使に任命された。洪鈞は当時蘇州の名妓賽金花を身請けして妾としており、本妻のように一緒に出使した。賽金花の魅力が外交界を驚嘆させた。また、電報の字や数字を国外のものと統一させ、経費を節減した。さらに外国のモンゴル史の史料を集め『元史訳文証補』を著した。

1892年パミール高原をめぐって清とロシアとの間に争議がおこったときに、ロシア語は不得手であったのにロシア側の地図を使ったことで、弾劾を受けた。そのことを悔やむあまり病を発し、北京で病死した。光緒帝はその死を深く悼んだという。





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「洪鈞」の関連用語

洪鈞のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



洪鈞のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの洪鈞 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS