編纂の経緯・後世の評価
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『旧唐書』は、唐末五代の戦乱の影響で、武宗以後の皇帝は実録に欠落があるなど史料不足による不備が大きかった。宋代になって、新出の豊富な史料によって、その欠を補ったのが、本書である。 本紀・志・表は欧陽脩が編纂。列伝は宋祁の撰とされるが、実際には宋敏求らの多数の当時を代表する学者が関与している。志の中に「兵志」を新設して、表を多用したのは、その功績とされている。 また文章も、唐宋八大家の一人であり古文家の大立者である欧陽脩のものであるため、簡潔な文体で叙述されている。ただ、簡略に過ぎていることや、詔勅の文章を古文に改変したり、中には錯誤も見られるため、史料的な価値では『旧唐書』に及ばないとされる。 同時期に『資治通鑑』を編纂した司馬光は、その「唐紀」の材料の多くを『旧唐書』から取り、本書にはほとんど依拠していない。本書の編纂に参画した呂夏卿は、本書の成立の直後に『唐書直筆新例』1巻を著すと、呉縝は『新唐書糾謬』20巻を著した。 宋代に盛んとなった中華思想を背景に、本書には復古的で儒教的な道義を重視する態度が貫かれている。「春秋の筆法」と呼ばれる主観的な叙述を用いているため、客観性を欠くという指摘がなされている。また、李白が乗船中、酒に酔って水面に映る月を取ろうとして船から転落して死亡した、と言う有名な俗説を取り入れてしまっている点も批判されている。 清朝の王鳴盛(『十七史商榷』)や趙翼(『二十二史箚記』)に代表される考証学の学者たちも、本書に対しては批判的である。 天体観測の記録も含まれており、天文学史の分野においては775年の宇宙線飛来と思われる記述など当時の天文現象を記述した貴重な資料となっている。
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編纂の経緯・後世の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 15:05 UTC 版)
明の建国後に執筆された『元史』は、モンゴル色を中国から一刻も早く一掃したいという初代皇帝洪武帝の思惑によって、実質編纂期間が数カ月と限られるなど杜撰極まりないものであり、洪武帝の死後には早くも改訂論が現れる始末であった。このため、何度も改訂の試みが行われて清の邵遠平の『元史類編』や銭大昕の『元史氏族表』、洪鈞の『元史訳文証補』、屠寄の『蒙兀児史記』などが執筆された。だが、次第に元王朝自体が広大なモンゴル帝国の一部であり、モンゴルやイスラム世界などの史料の理解が無い限りは正確な元朝の歴史書が編纂出来ない事が明らかになってきた。 『新元史』はこうした事情に配慮してこれまでの先人の著作に加え、『元朝秘史』やラシードゥッディーンの『集史』なども参照して、『元史』を改訂する形で編纂された。 だが、この『新元史』に対しても『元史』よりは少しましになっただけであるとの批判が寄せられた。細部の誤りや不備が指摘されただけでなく、従来の『元史』を改訂・増補した部分の根拠が明らかでなく、原資料からの誤った引き写しも多いと非難された。このため、1930年には重訂が行われたものが刊行され、柯劭忞自身も『新元史考証』(58巻)を著してその根拠について解説した(ただし、なお一部に十分に説明されていない部分があると指摘されている)。
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