編纂の経緯とその目的
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)
編纂については、1650年に国王尚質が当時の摂政である金武王子朝貞や三司官の大里良安に命じて広く旧僚や古老から聞き取りを行った。それらを羽地が世系図としてまとめ、詩経の「殷鑑遠からず」を意識して「世鑑」と名付けたという。 専ら王家の系図を作成するという構想のもとに成ったものである。編纂の目的も、過去を手本としつつ先王らの系統や事績を見ることで今後の参照としていくこと。また、子孫たちに先王がこれまで万世一系であったという所以を知らしめるということを意図しているという。 この時期に編纂が行われた理由として、幕府が諸大名に家系図編纂を命じそれが『寛永諸家系図伝』として完成したのが1643年のことであり、そのことが大きく影響したと言われている。
※この「編纂の経緯とその目的」の解説は、「羽地朝秀」の解説の一部です。
「編纂の経緯とその目的」を含む「羽地朝秀」の記事については、「羽地朝秀」の概要を参照ください。
- 編纂の経緯とその目的のページへのリンク