編纂の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 01:34 UTC 版)
中宗時代より明の李朱医学が取り入れられ、従来の朝鮮医学は忘れ去られており、薬までも全て中国に依存する状況にあったが、明医学では朝鮮半島固有の環境・病理に適さない部分があったため、これらの明医学を基礎とし、従来の朝鮮医学との統合作業の必要に迫られていた。また、日本や後金(清)の侵入が度重なり、明薬の輸入が困難になったため、忘れ去られていた朝鮮独特の薬である郷薬の復活が必須になっていた。 1596年、宣祖の王命により、内医院に編纂局を置き、許浚・楊礼寿・李命源・鄭碏・金応鐸・鄭礼男らが朝鮮独自の医学に基づく医学書の作成に乗り出したが、翌年の1597年、丁酉再乱(慶長の役)の勃発により編纂作業は中断された。しかし、許浚が自身の一生をかけた仕事として著述に臨み、14年の歳月を経て、1610年に完成した。1613年、『東医宝鑑』という名で刊行された。 印刷と発行は李希憲、尹知微等この監校官に任命、監督した。
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