編纂の経緯とは? わかりやすく解説

編纂の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 01:57 UTC 版)

古事記」の記事における「編纂の経緯」の解説

中大兄皇子天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷大邸宅に火をかけ自害した。この時に朝廷歴史書保管していた書庫までもが炎上したと言われる。『天皇記』など数多く歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れて天智天皇献上されとされるが、共に現存しない。天智天皇白村江の戦いで唐と新羅連合敗北し予想され渡海攻撃への準備のため史書編纂余裕はなかった。その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史編纂命じたその際28歳で高い識字能力記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』などの文献を「誦習」させた。その後元明天皇の命を受け、太安万侶阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し『古事記』完成させた。

※この「編纂の経緯」の解説は、「古事記」の解説の一部です。
「編纂の経緯」を含む「古事記」の記事については、「古事記」の概要を参照ください。


編纂の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/01 22:38 UTC 版)

清国行政法」の記事における「編纂の経緯」の解説

1903年当時台湾総督府民政長官であった後藤新平が、旧慣調査会第一部長の岡松参太郎推薦により、織田萬委嘱したもの委員となった織田は、狩野直喜委員推挙し補助員として、浅井虎夫東川徳治加藤繁迎えて編纂実行移した総督府臨時台湾旧慣調査会第一部報告書。『台湾私法と共に編纂が行なわれた。但し、文献調査主体であって実地調査伴っていなかったため、その制度法制実情適するものであったかどうかは、問われていないので、注意する必要がある調査が行なわれた文献は、会典事例、則例、九通などの政書、及びその他の和漢書洋書含まれていた。 各委員補助員の分担判明しており、織田萬が、行政法自治制度・民籍警察等。狩野直喜が、中央官制官吏法等。加藤繁が、土地制度産業貨幣等。を、それぞれ担当して調査執筆が行なわれた。そして、最後に織田全般監修加えたとされる

※この「編纂の経緯」の解説は、「清国行政法」の解説の一部です。
「編纂の経緯」を含む「清国行政法」の記事については、「清国行政法」の概要を参照ください。


編纂の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/02 04:39 UTC 版)

封内風土記」の記事における「編纂の経緯」の解説

宝暦13年1763年)に、仙台藩主伊達重村の命により、田辺希文編纂し明和9年1772年安永元年)に完成させた。叙によると、会津藩保科正之編纂させた『会津風土記』にならい、統治参考にするために作られたものである先行するものに佐久間洞巌の『奥羽観蹟聞老志』、佐藤信要の『封内名蹟志』があって、文中しばしば両書を参考に引き、継承の意を明らかにしている。 完成した明和9年1772年)の末に希文は81歳で死去した。希文は老齢実地調査ができず、先行地誌十分に訂正克服できなかったことを無念として、子の希元に改訂事業託した。希元が編集する新しい風土記のために、仙台藩領内と寺に提出させたのが、多数現存する風土記御用書出」(通称安永風土記書出』)である。しかし結局改訂成らず終わった

※この「編纂の経緯」の解説は、「封内風土記」の解説の一部です。
「編纂の経緯」を含む「封内風土記」の記事については、「封内風土記」の概要を参照ください。


編纂の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 23:07 UTC 版)

徳川実紀」の記事における「編纂の経緯」の解説

寛政11年1799年)に大学頭林述斎が公式史書編纂建議享和元年1801年から1802年)に正式に決定した総括は述斎だが、編集主任として実務あたったのは奥儒者成島司直なるしま もとなお柳北祖父)であり、はじめ御実紀調所編集所)も司直邸宅置かれた。司直配下編集者御徒下級武士)から石原多助、岸本桜井庄五郎荻野八百吉らが参加し、後に黒沢新八郎、中村伝之助、小川三郎小林之助らが増員された。司直の子である筑山は副本作成関わり、孫である柳北訂正参加している。 文化6年1809年2月起稿天保12年7月14日1841年8月30日)、発起人監修者である述斎が死去した。さらに正本完成直前である天保14年1843年10月24日主幹司直が突然御役御免隠居謹慎命じられ、子の筑山も連座して解任されるというトラブル見舞われる解任理由不明だが、司直がその才気から将軍家慶の寵愛を受け学者なのにたびたび政治口を出すために恨まれたからだという説、同時期の老中首座水野忠邦失脚関連があるという説がある。司直罷免により、御実紀調所昌平坂学問所に移る。天保14年12月1844年1月から2月)に正本完成し12徳川家慶献上嘉永2年1849年11月副本完成副本完成功績で筑山は賞賜され、名誉回復)、安政4年1857年4月日光東照宮奉納献上本の浄書完成12月1858年)に献納

※この「編纂の経緯」の解説は、「徳川実紀」の解説の一部です。
「編纂の経緯」を含む「徳川実紀」の記事については、「徳川実紀」の概要を参照ください。


編纂の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 22:22 UTC 版)

経国大典」の記事における「編纂の経緯」の解説

世祖在位1455年 - 1468年)は、即位直後に、統一法典策定命じ、「六典詳定官」を任命し、「六典定所」を設置して編纂開始した。 詳定官の初稿は、1458年2月提出され世祖自身朱筆経て最初に戸典」が1460年7月完成頒布された(経国大典戸典)。 続いて1461年7月には、「刑典」が完成し公布された(経国大典刑典)。 残る吏・礼・兵・工の四典も1466年には完成し、一応の議定を経るも、再度全面的な検討作業入った大典編纂作業その後継続されたが、世祖生存中には完成せず、1468年9月世祖死去して最終案睿宗の代(在位1468年 - 1469年)に持ち越された。 1469年9月、「六典」の体裁整い、徐居正序文献じられて一応の完成見た経国大典序)。しかし、この年11月睿宗急死したため、施行はまたも延期され成宗の代に引き継がれた。 成宗時代在位1469年 - 1494年)は、文化的な興隆期で、法典以外にも数多く出版事業遂行されたが、「大典」の見直し作業精力的に行なわれ1471年に「大典」が完成頒布された(辛卯大典)。しかしながら、この時の大典」も条文不備のため、のちに改訂されることになる。 1472年2月改訂経た大典」が施行され未収録72条文については別に続録を作って同時に施行された(甲午大典)。 1481年再検討議論起こり、「監督庁」を設置して、「大典」と「続録」の改訂作業入り1484年12月最終稿完成。翌1485年成宗16年正月一日に、ついに『経国大典』が頒布施行された。これが最終的に確定した朝鮮王朝成文典で、『乙巳大典』と呼ばれ現存する最古の『経国大典』である。なお、『辛卯大典』や『甲午大典』は現存しない。

※この「編纂の経緯」の解説は、「経国大典」の解説の一部です。
「編纂の経緯」を含む「経国大典」の記事については、「経国大典」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「編纂の経緯」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「編纂の経緯」の関連用語

編纂の経緯のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



編纂の経緯のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの古事記 (改訂履歴)、清国行政法 (改訂履歴)、封内風土記 (改訂履歴)、徳川実紀 (改訂履歴)、経国大典 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS