編纂の経緯
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中大兄皇子(天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れて天智天皇に献上されたとされるが、共に現存しない。天智天皇は白村江の戦いで唐と新羅の連合に敗北し、予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。壬申の乱後、天智天皇の弟である天武天皇が即位し、『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた。その際、28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』などの文献を「誦習」させた。その後、元明天皇の命を受け、太安万侶が阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し『古事記』を完成させた。
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編纂の経緯
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1903年、当時の台湾総督府・民政長官であった後藤新平が、旧慣調査会第一部長の岡松参太郎の推薦により、織田萬に委嘱したもの。委員となった織田は、狩野直喜を委員に推挙し、補助員として、浅井虎夫・東川徳治・加藤繁を迎えて、編纂を実行に移した。 総督府の臨時台湾旧慣調査会の第一部報告書。『台湾私法』と共に編纂が行なわれた。但し、文献調査が主体であって、実地調査を伴っていなかったため、その制度や法制が実情に適するものであったかどうかは、問われていないので、注意する必要がある。 調査が行なわれた文献は、会典、事例、則例、九通などの政書、及びその他の和漢書や洋書も含まれていた。 各委員・補助員の分担も判明しており、織田萬が、行政法・自治制度・民籍・警察等。狩野直喜が、中央官制・官吏法等。加藤繁が、土地制度・産業・貨幣等。を、それぞれ担当して調査執筆が行なわれた。そして、最後に、織田が全般の監修を加えたとされる。
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編纂の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/02 04:39 UTC 版)
宝暦13年(1763年)に、仙台藩主伊達重村の命により、田辺希文が編纂し、明和9年(1772年、安永元年)に完成させた。叙によると、会津藩の保科正之が編纂させた『会津風土記』にならい、統治の参考にするために作られたものである。先行するものに佐久間洞巌の『奥羽観蹟聞老志』、佐藤信要の『封内名蹟志』があって、文中しばしば両書を参考に引き、継承の意を明らかにしている。 完成した明和9年(1772年)の末に希文は81歳で死去した。希文は老齢で実地調査ができず、先行の地誌を十分に訂正・克服できなかったことを無念として、子の希元に改訂事業を託した。希元が編集する新しい風土記のために、仙台藩が領内の村と寺に提出させたのが、多数現存する「風土記御用書出」(通称『安永風土記書出』)である。しかし結局改訂は成らずに終わった。
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編纂の経緯
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寛政11年(1799年)に大学頭林述斎が公式史書の編纂を建議、享和元年(1801年から1802年)に正式に決定した。総括は述斎だが、編集主任として実務にあたったのは奥儒者成島司直(なるしま もとなお、柳北の祖父)であり、はじめ御実紀調所(編集所)も司直の邸宅に置かれた。司直配下の編集者は御徒(下級武士)から石原多助、岸本寛蔵、桜井庄五郎、荻野八百吉らが参加し、後に黒沢新八郎、中村伝之助、小川留三郎、小林鉄之助らが増員された。司直の子である筑山は副本作成に関わり、孫である柳北は訂正に参加している。 文化6年(1809年)2月起稿。天保12年7月14日(1841年8月30日)、発起人・監修者である述斎が死去した。さらに正本完成の直前である天保14年(1843年)10月24日、主幹の司直が突然御役御免隠居謹慎を命じられ、子の筑山も連座して解任されるというトラブルに見舞われる。解任の理由は不明だが、司直がその才気から将軍家慶の寵愛を受け学者なのにたびたび政治に口を出すために恨まれたからだという説、同時期の老中首座水野忠邦失脚と関連があるという説がある。司直罷免により、御実紀調所は昌平坂学問所に移る。天保14年12月(1844年1月から2月)に正本が完成し12代徳川家慶に献上、嘉永2年(1849年)11月に副本が完成(副本完成の功績で筑山は賞賜され、名誉回復)、安政4年(1857年)4月に日光東照宮奉納献上本の浄書完成、12月(1858年)に献納。
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編纂の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 22:22 UTC 版)
世祖(在位:1455年 - 1468年)は、即位直後に、統一法典の策定を命じ、「六典詳定官」を任命し、「六典詳定所」を設置して、編纂を開始した。 詳定官の初稿は、1458年閏2月に提出され、世祖自身の朱筆を経て、最初に「戸典」が1460年7月に完成頒布された(経国大典戸典)。 続いて1461年7月には、「刑典」が完成し、公布された(経国大典刑典)。 残る吏・礼・兵・工の四典も1466年には完成し、一応の議定を経るも、再度全面的な検討作業に入った。 大典編纂の作業はその後も継続されたが、世祖生存中には完成せず、1468年9月に世祖が死去して、最終案は睿宗の代(在位:1468年 - 1469年)に持ち越された。 1469年9月、「六典」の体裁が整い、徐居正の序文が献じられて一応の完成を見た(経国大典序)。しかし、この年の11月に睿宗が急死したため、施行はまたも延期され、成宗の代に引き継がれた。 成宗の時代(在位:1469年 - 1494年)は、文化的な興隆期で、法典以外にも数多くの出版事業が遂行されたが、「大典」の見直し作業も精力的に行なわれ、1471年に「大典」が完成頒布された(辛卯大典)。しかしながら、この時の「大典」も条文の不備のため、のちに改訂されることになる。 1472年2月、改訂を経た「大典」が施行され、未収録の72条文については別に続録を作って、同時に施行された(甲午大典)。 1481年に再検討の議論が起こり、「監督庁」を設置して、「大典」と「続録」の改訂作業に入り、1484年12月に最終稿が完成。翌1485年(成宗16年)正月一日に、ついに『経国大典』が頒布施行された。これが最終的に確定した朝鮮王朝の成文典で、『乙巳大典』と呼ばれ、現存する最古の『経国大典』である。なお、『辛卯大典』や『甲午大典』は現存しない。
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