編纂の動機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:49 UTC 版)
本書の編纂は呉兢によるもので、時期は太宗の死後40から50年ぐらい、つまり武則天が退位して中宗が復位し、唐朝が再興した頃である。呉兢は以前から歴史の編纂に携わっており、太宗の治績に詳しいことから中宗の復位を喜んだ。そして貞観の盛政を政道の手本として欲しいとの願いから、『貞観政要』を編纂して中宗に上進した。その後、玄宗の世の宰相・韓休(かんきゅう、672年 - 739年)がかつて中宗に上進したその書を高く評価し、後世の手本となるように呉兢に命じて改編して上進させた。以後、『貞観政要』が世に広まったのである。 中宗に上進した初進本は中宗個人を対象としたもので、天子が心得るべき篇(輔弼(ほひつ)篇や直言諫諍(かんそう)篇、第4巻参照)があり、玄宗への再進本は後世の手本とするものなので、太子や諸王を戒める篇に改められている。
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