編纂と板行とは? わかりやすく解説

編纂と板行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/04 16:55 UTC 版)

五畿内志」の記事における「編纂と板行」の解説

こうした背景のもと、『五畿内志』の編纂開始された。本書はもともと関祖衡が企画したのだったが、実現を見ることなく死去したため、その遺稿引き継いだ並河誠所事業進めた本書編纂関係する史料初出は、享保14年1729年3月大岡忠相より老中水野忠之提出され上申書および、それに添えられ並河願書である。上申書記述から、この時点幕府並河編纂を既に命じていたと見え、それに応じて並河草稿12冊の提出加え廻村調査実施の願出と調査対す諸種支援の要望願書記している。廻村調査同年4月20日許可され勘定奉行および寺社奉行連印による書付与えられるとともに書付の写が関係する領主役所回付された。こうした所領をまたがる調査対す幕府許可はこれが初めではなく前述青木昆陽らの調査の際と同じ形式踏襲されている。調査享保16年1731年)頃まで行われ、その重点は、神社墓地地名におかれていたと見られるこの後並河は『五畿内志』の編纂着手するが、調査結果もとづき並河が行ったのはそれだけではない。並河また、畿内各地顕彰碑建立することを幕府願い出て摂津国内の延喜式内社20社に限り許可得たが、その他に忠臣墓所顕彰碑建碑続けた編纂はまず『河内志』『和泉志』『摂津志』の3冊が完了し享保18年1733年)に幕府献上された。残りの『山城志』『大和志』は翌享保19年1734年3月5日完成し同年7月には吉宗から銀10下賜されて、編纂の労が労われた。並河廻村調査と同じ享保14年1729年)に板行許可得ていた。そこで、享保20年1735年)閏3月にさっそく『河内志』を板行し、板本幕府献上したが、ここでひとつの問題起きた板本献上本を比較したところ異同があり、徳川家康の名の登場する箇所板本からは削除されていたのである幕府享保7年1722年)の触書新板書物規制行っていたが、その中で人々家筋先祖之事」特に家康含め徳川家に関する書物一切出版禁じられていた。そのため、並河もこの規制従い板本から家康に関する部分削除していたのである。この異同対す対処指示求めた大岡忠相対し幕府享保7年触書から方針転じ興味本位扱いでない限り徳川家に関する出版規制しないとの方針示したこうした方針転換と、享保20年前後からの徳川家による徳川幕府成立史への関心とは無関係ではなく吉宗は『五畿内志』に産物調査だけでなく、徳川幕府成立史史料として機能をも期待したのであるこうした経緯帰結として、歴史地域との関係物語書物という、新たな性格地誌生じて来ることになったまた、前述享保20年1735年以降古文書調査特質あわせて考えるならば、この方転換は、家康を「東照神君」として特定の仕方利用する吉宗政権東照神君イデオロギー活用結び付いたものであった板行は翌享保21年1736年)にわたって続けられ完成した板本紅葉山文庫収蔵され一方幕府当初献上され手稿本並河返還されたことにより、板本正本とすることが明確にされた。

※この「編纂と板行」の解説は、「五畿内志」の解説の一部です。
「編纂と板行」を含む「五畿内志」の記事については、「五畿内志」の概要を参照ください。

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