編纂と板行
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こうした背景のもと、『五畿内志』の編纂は開始された。本書はもともと関祖衡が企画したものだったが、実現を見ることなく死去したため、その遺稿を引き継いだ並河誠所が事業を進めた。本書編纂に関係する史料の初出は、享保14年(1729年)3月に大岡忠相より老中水野忠之に提出された上申書および、それに添えられた並河の願書である。上申書の記述から、この時点で幕府は並河に編纂を既に命じていたと見え、それに応じて並河は草稿12冊の提出に加え、廻村調査実施の願出と調査に対する諸種の支援の要望を願書に記している。廻村調査は同年4月20日に許可され、勘定奉行および寺社奉行の連印による書付が与えられるとともに、書付の写が関係する領主や役所に回付された。こうした所領をまたがる調査に対する幕府の許可はこれが初めてではなく、前述の青木昆陽らの調査の際と同じ形式が踏襲されている。調査は享保16年(1731年)頃まで行われ、その重点は、神社・墓地・地名におかれていたと見られる。この後、並河は『五畿内志』の編纂に着手するが、調査結果にもとづき並河が行ったのはそれだけではない。並河はまた、畿内各地に顕彰碑を建立することを幕府に願い出て、摂津国内の延喜式内社20社に限り許可を得たが、その他にも忠臣の墓所顕彰碑の建碑を続けた。 編纂はまず『河内志』『和泉志』『摂津志』の3冊が完了し、享保18年(1733年)に幕府に献上された。残りの『山城志』『大和志』は翌享保19年(1734年)3月5日に完成し、同年の7月には吉宗から銀10枚が下賜されて、編纂の労が労われた。並河は廻村調査と同じ享保14年(1729年)に板行の許可を得ていた。そこで、享保20年(1735年)閏3月にさっそく『河内志』を板行し、板本を幕府に献上したが、ここでひとつの問題が起きた。板本と献上本を比較したところ異同があり、徳川家康の名の登場する箇所が板本からは削除されていたのである。幕府は享保7年(1722年)の触書で新板書物の規制を行っていたが、その中で「人々家筋先祖之事」特に家康を含め徳川家に関する書物一切の出版が禁じられていた。そのため、並河もこの規制に従い、板本から家康に関する部分を削除していたのである。この異同に対する対処の指示を求めた大岡忠相に対し、幕府は享保7年の触書から方針を転じ、興味本位の扱いでない限り徳川家に関する出版を規制しないとの方針を示した。こうした方針転換と、享保20年前後からの徳川家による徳川幕府成立史への関心とは無関係ではなく、吉宗は『五畿内志』に産物調査だけでなく、徳川幕府成立史の史料としての機能をも期待したのである。こうした経緯の帰結として、歴史と地域との関係を物語る書物という、新たな性格が地誌に生じて来ることになった。また、前述の享保20年(1735年)以降の古文書調査の特質とあわせて考えるならば、この方針転換は、家康を「東照神君」として特定の仕方で利用する、吉宗政権の東照神君イデオロギー活用と結び付いたものであった。 板行は翌享保21年(1736年)にわたって続けられ、完成した板本が紅葉山文庫に収蔵される一方、幕府に当初献上された手稿本が並河へ返還されたことにより、板本を正本とすることが明確にされた。
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