並河誠所とは? わかりやすく解説

並河誠所

読み方なみかわ せいしょ

江戸中期儒者京都の人。名は永、字は宗永の尚永通称は五市郎並河倹斎の長子で兄は天民伊藤仁斎の門に学ぶ。博学知られ掛川川越藩仕えた地理志を友人関祖衡と撰した。著書に『山城志』『山和志』『河内志』『和泉志』『摂津志』『擬集古録』がある。元文3年(1738)歿、71才。

並河誠所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/09 15:40 UTC 版)

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並河 誠所(なみかわ/なびか せいしょ、寛文8年(1668年) - 元文3年3月10日1738年4月28日))は、江戸時代中期に活躍した儒学者地理学者は永。字は宗永、後に尚永。並川五一、並川五一郎とも称される。儒学者の並河天民は弟。

実地調査に6年間を費やして、畿内五カ国の地誌『五畿内志』を編纂した。調査の過程で数々の延喜式式内社の比定も行っている。

生涯

  • 寛文8年(1668年)、山城国紀伊郡横大路村(現・京都府京都市伏見区)の富農の家に生まれる。
  • 元禄4年(1691年)、24歳の時、京都で儒学者の伊藤仁斎の堀川塾に学んだ。
  • 元禄12年(1699年)、32歳で遠江国掛川藩の藩儒となる。宝永3年(1706年)に辞任。
  • 宝永5年(1708年)、武蔵国川越藩の藩儒となる。享保元年(1716年)、49歳で辞任。以後仕官せず、江戸に住み塾を開いた。京都に塾を開いていた弟の並河天民の処へ度々行き、経世済民思想に強い影響を受ける。さらに、歴史・地理・動物・植物から風俗・異聞まで関心を広げ、宝蔵学者の関衡祖や野呂元丈と親交を持った[1]
  • 享保8年(1723年)、56歳の時、幕府の命を受けて古文献の探訪に携わった。京・奈良・大坂など畿内の古文献を採訪した。幕府には地誌も含めて報告した。この時に、自らも地誌を編纂することを志した[1]
  • 享保11年(1726年)、翌年まで大坂町人の学問所懐徳堂などで教え、続いて三島宿の北に漢学の私塾「仰止館」を開く。
  • 享保14年(1729年)、62歳の時、幕府より畿内地誌編纂の命を受ける。調査の旅に出た。まず河内国で調査する。村々の検地帳を検分、字名・古墳・氏神・古跡などの聞き取り調査を行う[1]
  • 享保15年(1730年)、摂津国に入り、検地帳や村明細帳などを提出させ、村高・氏神・字名・街道の間数などを調査した[1]
  • 享保16年(1731年)、大和国に入る。村里に入り、山川・集落・寺社・橋梁・名産・古墳・池などをつぶさに実地調査した[1]
  • 享保19年(1734年)、『五畿内志』完成。
  • 元文3年(1738年)、71歳で没した。
  • 大正6年(1917年)、従五位を追贈された[2]
金堀塚(現静岡県立三島北高等学校内)に墓が作られたが、大正8年(1919年)に本覚寺へ移された。

脚注

  1. ^ a b c d e 岡田俊裕 2011年 61ページ
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.43

参考文献

  • 岡田俊裕著 『 日本地理学人物事典 [ 近世編 ] 』 原書房 2011年 ISBN 978-4-562-04694-2

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