戦没地・墓所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 15:28 UTC 版)
信房の墓所の場所は不明だが、大神神社の系譜により戦没地は阿倍野と伝わる。太平記などの伝承では、同年同日に北畠顕家も阿倍野で戦死したとあり、大阪市阿倍野区王子町の北畠公園には江戸時代に建てられた顕家の墓がある。周囲の地名も北畠と名付けられており、阿部野神社では顕家が主祭神として祀られていることなど、北畠公園は北畠顕家の戦没地とされている。だが、現在では顕家は石津の戦いで戦死したことが通説であり、堺市西区の石津川付近に供養塔が建てられており、南部師行と共に慰霊されている。 北畠公園の墓は、古くから「大名塚」と呼ばれていた墳墓に対し、顕家の死後およそ400年後の享保18年(1733年)に学者の並河誠所が顕家の墓と推定したものであり、太平記などの信憑性に欠ける伝承に基づいて建てられた。この事から、実は阿倍野の戦いで戦死したのは、顕家ではなく信房だったと指摘する研究者もいる。信房の戦没地および墓地の場所も、北畠公園の付近一帯であると考えられる。
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