水野忠之
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水野 忠之(みずの ただゆき)は、江戸時代中期の譜代大名で、江戸幕府老中。三河岡崎藩の第4代藩主(5万石、後6万石)。忠元系水野家5代。
- ^ 当時の水野家の厚遇を詠う狂歌「細川の 水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」が残る。(「アル書ニ載ス。此時御預リ四家ノ優劣ヲ詠ゼシ歌」『浅野一乱記』)
- ^ 赤穂市発行「忠臣蔵第1巻」
- ^ 赤穂浪士切腹当時の水野屋敷は、現在の「水野監物邸跡」より北へ50メートルほど離れた場所にあった。(東京都教育委員会)
- ^ 久松松平家は浪士を罪人として扱い(『波賀清太夫覚書』では「警備には鎖を着込み具足も用意、沙汰がある前から自身を主税の介錯人に定む」)、切腹でも失礼(主税が腹に当てる以前に斬首)、毛利家は部屋をくぎ付けした以外に、自害や反乱を警戒し火気(火鉢・煙草・風呂)厳禁とも伝わる。(『府中侯留書』)
- ^ 「水野家文書」(東京都立大学付属図書館)
- ^ 旗本家
- ^ 岡崎藩主
水野忠之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
水野は、お預かり義士について何の感想も感情も示していない。岡崎藩の記録では「九人のやから、差し置き候庭のうちへも、竹垣これをつむ」「寒気強く候につき臥具増やす冪あり申せども、その儀に及ばず初めの儘にて罷りあり」と薄情な記述がある。
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