預けられた赤穂浪士9名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 02:19 UTC 版)
「水野監物邸跡」の記事における「預けられた赤穂浪士9名」の解説
間十次郎(光興) 奥田貞右衛門(行高) 矢頭右衛門七(教兼) 村松三太夫(高直) 間瀬孫九郎(正辰) 茅野和助(常成) 横川勘平(宗利) 三村次郎左衛門(包常) 神崎与五郎(則休) 現在の慶應仲通りが三田二丁目から田町側に向かい、商店街の終点で東南に折れる場所の正面の医院の前に位置する。 ただし、元禄16年(1703年)11月に切腹跡を含めた藩邸は火事で焼失したうえ、水野氏は天保14年(1843年)閏9月、江戸市民や浪人たちに邸を襲撃されたため屋敷の移動があり、浪士切腹当時の屋敷は同地より北へ50メートルほど離れた場所にあった。 水野忠之は浪士を丁重に遇したと伝わる。火災、水野騒動の処罰と転封、百姓一揆などによる混乱や藩主押し込め、暴徒の藩邸襲撃などで往時の遺構(畳二枚、供養塔など)は散逸してしまい、現在は屋敷移転後に置かれた石灯篭、二か国語の案内板、由来不明の丸石と木製ベンチが残る。
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