水野家統治時代
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その直後の7月14日に三河吉田藩から水野忠善が5万石で入った。忠善は新田5000石を弟の水野忠久に分与している。藩政では慶安2年(1649年)の検地をはじめ、新田開発、支配機構の整備などが行なわれた。 しかし第2代藩主水野忠春が奏者番・寺社奉行に任じられ、第4代藩主水野忠之は老中として享保の改革に参与した。このように歴代藩主が幕閣に入ったことから出費が激しく、さらに領内での天災も相次ぎ、藩財政は悪化した。このため、第6代藩主水野忠辰は財政再建を目指して保守的な家老を隠居させ、藩政改革を行なうが、保守派家老の妨害にあって改革は失敗し、失意に落ちた忠辰は保守派家老によって押込められ、隠居させられる。 第7代藩主水野忠任は、宝暦12年(1762年)9月30日に肥前国唐津藩6万石へ移封された(ただし、父祖伝来300年に及ぶ三河を去ること、唐津は年貢が低い事、唐津では老中などに就任が困難な事により栄転ではない)。
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