水野家の時代
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堀田正盛の後は三河吉田藩より水野忠清が7万石で入封した。忠清は大坂の陣で先陣争いをして戦功を立てた古強者であったが、松本に在任してから5年後の正保4年(1647年)5月に死去している。なお、忠清は徳川家康の従弟に当たる。 第2代は息子の忠職が継ぎ、慶安検地を実施して財政基盤を確立し、この検地は明治時代の地租改正までの土地の基本台帳となった。この検地高は11万2000石余りになったが評判が悪く、検地のやり直しや検地が終了しない内から再検地の要請が相次ぐなど混乱し、場合によっては永引地として減税になるなど混乱が相次いでいた。また忠職は年貢納入制度を定め、稲の品種改革や川除普請、百姓訴訟法の制定など、民政の確立に勤めた。しかし寛文6年(1666年)から4年をかけて飢饉が起こり(寛永の飢饉)、忠職は酒造の制限や酒売買の禁止、雑穀売りの制限から7か条の倹約令、奢侈禁止令を出すなどして対応した。ただし一方では代官など支配する側の不正を許さず法令化して厳しく取り締まった。こうして松本藩政は忠職の下で確立した。また忠職の弟忠増に5000石が分知され旗本に列し、後に幕府から加増をうけて忠増の子忠位が1万2000石の大名となる。その子忠定は笹部に陣屋を置き信濃1万石、丹波2000石を領したが、北条藩に転封となる。 忠職の跡を継いだ第3代忠直は、父の時代から続く寛文の飢饉の時期に襲封したためという理由もあるが、延宝期にも飢饉が相次いで財政が逼迫した。このため、貞享3年(1686年)に年貢を増徴して、貞享騒動と呼ばれる一揆が起こった。騒動そのものは松本藩が一揆側の要求を受け入れて鎮定したが、松本藩は一揆側と交わした約定を破棄し、首謀者は兄弟子供を含めて28人を磔獄門に処した。また忠直は寺社参詣、松茸狩り、川干し漁、祭事、能狂言など遊興に熱中して藩政を省みなかった。忠直は諸芸の名人を召し抱えて松本は江戸や京都に倣って風俗や文化的には発展を遂げている。だが財政的には困窮し、忠直時代から御用金策が開始された。また幕府より神田橋藩邸の上納を命じられ、日本橋浜町に替地を下賜される。 第4代忠周は忠直の息子で、父とともに遊興にふけった。しかし一方で忠直時代の放漫財政を改めようと財政改革に着手し、江戸家中の者に御定法91か条による日常生活の切り詰め、家臣の減給、倹約令から人員削減などに着手したが、在任5年で没した。また日本橋浜町の江戸上屋敷が火災で焼失し、田安門に移転した。 第5代忠幹は才智に優れた人物と伝わるが、在任5年で25歳の若さで没した。 このため第6代には忠幹の実弟忠恒が就任する。幕府より田安門藩邸の上納を命じられ、筋違御門外に替地を下賜される。だが忠恒は遊興にふけり酒好きであり、短慮の上に悪食で気性も荒いという兄と正反対の暗愚の人物であった。その暗愚ぶりは享保9年(1724年)7月の犀川熊倉橋前の川干し漁で1975人を動員し、さらに8月23日には鷹狩、9月3日には松茸狩りとして現れていた。そして享保10年(1725年)7月29日、将軍吉宗の拝謁を無事終えて帰る時、江戸城中の松之大廊下で長府藩の世子毛利師就とすれ違った際に小刀を抜刀して斬りつけるという事件を起こした。忠恒は直ちに取り押さえられ、取調べでは自らの不行跡により領地が召し上げられて毛利に与えられるものと思い切りつけたと答えたが、そのような事実は全く無く忠恒の被害妄想であり、幕府は毛利に咎めなく忠恒は乱心したとして所領没収・改易とした。ただし水野家は幕府に強い影響力があり、「勲旧の世家、全く廃すべからず」として断絶だけは免れて川越藩に預けられ、叔父の水野忠穀に信濃佐久郡において7000石、また忠穀の兄水野忠照に2000石を与えて存続は許した。忠恒は医師2人をつけて川越藩に預けられた後、叔父の下で蟄居した。松本藩水野家の引き払いは9月26日までに行なわれ、忠毅の下に仕えた者以外は浪々の身となり悲惨な生活を送ったと伝えられる。筑摩郡は坂木代官に、安曇郡は飯島代官に預けられた。
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