水野家家老二本松氏
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天正17年(1589年)に第12代義綱は蘆名義広に殺害された際、その弟・義孝は会津に逃れた。 義孝は上杉景勝・蒲生秀行・加藤嘉明ら歴代の会津領主の客分を経て、慶安元年(1648年)に徳川氏譜代の岡崎藩主水野忠善に仕え、二本松氏はこれ以後水野家の重臣となって家老格八家の一つに数えられるに至った。歴代当主のうち最も有名のなのが第6代義廉で、藩財政の再建および藩校・経誼館の設立に尽力したが、のちに水野忠邦を諌めるため自害している。義廉は遠祖・二本氏の供養を行っており、文化5年(1808年)に義廉が寄贈した畠山義国(二本松義国)の位牌が二本松市より文化財指定を受けている。 二本松氏は岡崎・唐津・浜松・山形と水野家の転封に従って居を移し、大正時代の当主が医学を修めて山形に病院を開設し今日に至っている。
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