幕閣での昇進と批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:41 UTC 版)
忠之はその後も幕府要職を歴任、宝永2年(1705年)1月1日に奏者番に就任する。さらに正徳元年(1711年)12月23日には若年寄に就任した。正徳4年(1714年)9月6日に京都所司代に就任する。このときに従四位下侍従和泉守に昇進した(大監物去る)。 享保2年(1717年)9月27日、老中となり将軍徳川吉宗の享保の改革を支えた。享保7年(1722年)、財政を専任する勝手掛老中に任ぜられた。享保8年(1723年)、見立新田十分一の法を設け、新田開発を促した。享保10年(1725年)には1万石を加増された。享保13年(1728年)、幕府領の年貢を四公六民から五公五民に引き上げた。これらの施策により幕府の財政は好転したものの、米価の急落や負担増による不満から批判された。当時流行した落書に、「無理で人をこまらせる物、生酔と水野和泉守」と詠まれるほどであった。 享保15年(1730年)6月12日に老中職を辞し、7月6日に次男の忠輝に家督を譲って隠居した。 隠居後は落髪して祥岳と号した。享保16年(1731年)3月18日に死去した。享年63。生前の遺命に基づいて牛込宝泉寺にて荼毘し、遺骨は24日に下総国山川万松寺へ送られて葬られた。
※この「幕閣での昇進と批判」の解説は、「水野忠之」の解説の一部です。
「幕閣での昇進と批判」を含む「水野忠之」の記事については、「水野忠之」の概要を参照ください。
- 幕閣での昇進と批判のページへのリンク