成立と作者とは? わかりやすく解説

成立と作者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 07:52 UTC 版)

ヴィエルコポルスカ年代記」の記事における「成立と作者」の解説

この年代記はヴィエルコポルスカ視点記述されているため、その名で呼ばれている。正式な名称は不明である。現存する写本は、『ポーランド年代記』(ラテン語: Chronicum Poloniae) や『ポーランド人起源編年記または年代記』(Annalia vestuste gentic Polonorum vel Kronice)などといった題名つけられている。 ブルィギダ・キュルビスらが唱える説としては、原本ポズナン聖職者ゴジスラフ・バシュコが1283年から1296年の間にまとめ、14世紀初頭のジェジュヴァ年代記内容加えた第二版1377年から1384年の間にまとめられたという。一方でヤン・ドンブロフスキらは、この年代記は全編にわたり14世紀後半にチャルンクフのヤンがまとめたものであるとする説を主張している。 現存する写本は9編あり、代表的なものとしては、14世紀末にヴィエルコポルスカ収集された歴史文献集めた大年代記』がある。 ヴィエルコポルスカ年代記編纂の動機は、初期ポーランド王国の王たちの歴史記録することであった神話的な先史時代出来事から1271/2年までと、1273年2つ追加事項までを扱っている。この年代記は、底本とする文献によって前半後半2つにわけることができる。1202年までの記述はヴィンツェンティ・カドゥベクの『ポーランド年代記』が底本である。後半はより編年体的な形式になるが、これはグニェズノポズナン教会の各年の記録をもとにしている。その他、編者参照したとされる文献は、教会記録である『ポーランド史年代記』(Annales Polonorum historiae、現存せず)や、キェルチャのヴィンツェンティの『聖スタニスワフ生涯』(Vita s. Stanislai, Vita maior)が挙げられるヴィエルコポルスカ年代記編纂について書いた序章は、2つ写本残っている。一つは1295/6年(当時王としてプシェミスウ2世言及している)に制作されたもの、もう一つのより広範囲現存する写本は、14世紀制作されたとみられている。 1965年、カジミェシュ・アブガロヴィチによりポーランド語翻訳された。

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成立と作者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 03:49 UTC 版)

太平記」の記事における「成立と作者」の解説

作者と成立時期不詳であるが、今川貞世の『難太平記』に法勝寺恵鎮上人円観)が足利直義三十余巻を見せたとの記事があり、14世紀中ごろまでには後醍醐天皇崩御描かれる21あたりまでの部分円観玄慧など室町幕府との密接な関わりを持つ知識人中心に編纂されたと考えられている。室町幕府3代将軍足利義満管領細川頼之修訂関係していた可能性指摘されている。 いずれにせよ一人の手短期間出来上がったものではないだろう考えられている。この点については『難太平記』のほか、『太平記評判秘伝理尽鈔でも、あくまで根拠乏し伝説の域を出ないが、実に10人を超える作者列挙している。 また、玄恵作者説については、古態本の1つである神宮徴古館本の弘治元年1555年次の奥書に「独清再治書」とある(「独清」は玄恵の号である「独清軒」のことか 「再治」は再び編集すること、「書」とは大部の書の意味)。 (以下の記述から)小島法師などの手により増補改訂されてゆき、1370年ころまでには現在の40からなる太平記成立した考えられている。同時代の史料『太平記』の名が確認できる最古のものは、『洞院公定日記』の応安7年1374年5月3日条である(『太平記』自体作中記事で、もっとも新しい年記述応安4年1371年以降斯波義将追討の件である)。 伝へ聞く 去んぬる二十八九日の間 小嶋法師円寂すと 云々 是れ近日 天下に翫(もてあそ)ぶ太平記作者なり 凡(およ)そ卑賤の器なりと雖(いへど)も名匠聞こえ有り 無念と謂ふべし(原漢文:ただし「天下」と「太平記」の間に改行があり、「近日天下翫ぶ太平記」は「近日翫ぶ天下太平記」と読むべきだという意見もある。なおこの記事『太平記』との関連指摘されたのは、明治19年重野安繹よるもの。) 『難太平記』を別にすれば、同時代、またはそれに近い時代史料作者に擬されているのはこの「小嶋法師」だけであるが、この人物が何ものであるかは既述の「児島高徳」説(明治期から)ほか、備前児島に関係のある山伏説(和歌森太郎角川源義)、近江外嶋の関係者後藤丹治)など諸説あり、未だに決着見ていない。 『洞院公定日記』に見え『太平記』本文は全く不明であるが、後述する永和本の本文現存『太平記』本文にほぼ一致することを考えると、『太平記』作中最新最終記事事件から10年ほどで現存本文が成立したとも考えられる一貫して南朝よりであるのは、南朝側の人物書いたとも南朝方への鎮魂の意味があったとも推測されている。また、「ばさら」と呼ばれる当時の社会風潮下剋上に対して批判的に書かれている

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