成立と作者
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「ヴィエルコポルスカ年代記」の記事における「成立と作者」の解説
この年代記はヴィエルコポルスカの視点で記述されているため、その名で呼ばれている。正式な名称は不明である。現存する写本は、『ポーランド年代記』(ラテン語: Chronicum Poloniae) や『ポーランド人の起源の編年記または年代記』(Annalia vestuste gentic Polonorum vel Kronice)などといった題名がつけられている。 ブルィギダ・キュルビスらが唱える説としては、原本はポズナンの聖職者ゴジスラフ・バシュコが1283年から1296年の間にまとめ、14世紀初頭のジェジュヴァ年代記の内容を加えた第二版が1377年から1384年の間にまとめられたという。一方でヤン・ドンブロフスキらは、この年代記は全編にわたり14世紀後半にチャルンクフのヤンがまとめたものであるとする説を主張している。 現存する写本は9編あり、代表的なものとしては、14世紀末にヴィエルコポルスカで収集された歴史文献を集めた『大年代記』がある。 ヴィエルコポルスカ年代記編纂の動機は、初期ポーランド王国の王たちの歴史を記録することであった。神話的な先史時代の出来事から1271/2年までと、1273年の2つの追加事項までを扱っている。この年代記は、底本とする文献によって前半と後半の2つにわけることができる。1202年までの記述はヴィンツェンティ・カドゥベクの『ポーランド年代記』が底本である。後半はより編年体的な形式になるが、これはグニェズノやポズナンの教会の各年の記録をもとにしている。その他、編者が参照したとされる文献は、教会の記録である『ポーランド史の年代記』(Annales Polonorum historiae、現存せず)や、キェルチャのヴィンツェンティの『聖スタニスワフの生涯』(Vita s. Stanislai, Vita maior)が挙げられる。ヴィエルコポルスカ年代記の編纂について書いた序章は、2つの写本に残っている。一つは1295/6年(当時の王としてプシェミスウ2世に言及している)に制作されたもの、もう一つのより広範囲が現存する写本は、14世紀に制作されたとみられている。 1965年、カジミェシュ・アブガロヴィチによりポーランド語に翻訳された。
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成立と作者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 03:49 UTC 版)
作者と成立時期は不詳であるが、今川貞世の『難太平記』に法勝寺の恵鎮上人(円観)が足利直義に三十余巻を見せたとの記事があり、14世紀中ごろまでには後醍醐天皇の崩御が描かれる巻21あたりまでの部分が円観、玄慧など室町幕府との密接な関わりを持つ知識人を中心に編纂されたと考えられている。室町幕府3代将軍足利義満や管領細川頼之が修訂に関係していた可能性も指摘されている。 いずれにせよ一人の手で短期間に出来上がったものではないだろうと考えられている。この点については『難太平記』のほか、『太平記評判秘伝理尽鈔』でも、あくまで根拠の乏しい伝説の域を出ないが、実に10人を超える作者を列挙している。 また、玄恵作者説については、古態本の1つである神宮徴古館本の弘治元年(1555年)次の奥書に「独清再治之鴻書」とある(「独清」は玄恵の号である「独清軒」のことか 「再治」は再び編集すること、「鴻書」とは大部の書の意味)。 (以下の記述から)小島法師などの手により増補改訂されてゆき、1370年ころまでには現在の40巻からなる太平記が成立したと考えられている。同時代の史料で『太平記』の名が確認できる最古のものは、『洞院公定日記』の応安7年(1374年)5月3日条である(『太平記』自体の作中記事で、もっとも新しい年代記述は応安4年(1371年)以降の斯波義将追討の件である)。 伝へ聞く 去んぬる二十八九日の間 小嶋法師円寂すと 云々 是れ近日 天下に翫(もてあそ)ぶ太平記作者なり 凡(およ)そ卑賤の器なりと雖(いへど)も名匠の聞こえ有り 無念と謂ふべし(原漢文:ただし「天下」と「太平記」の間に改行があり、「近日天下に翫ぶ太平記」は「近日翫ぶ天下太平記」と読むべきだという意見もある。なおこの記事と『太平記』との関連が指摘されたのは、明治19年に重野安繹によるもの。) 『難太平記』を別にすれば、同時代、またはそれに近い時代の史料で作者に擬されているのはこの「小嶋法師」だけであるが、この人物が何ものであるかは既述の「児島高徳」説(明治期から)ほか、備前児島に関係のある山伏説(和歌森太郎、角川源義)、近江外嶋の関係者(後藤丹治)など諸説あり、未だに決着を見ていない。 『洞院公定日記』に見える『太平記』の本文は全く不明であるが、後述する永和本の本文が現存『太平記』本文にほぼ一致することを考えると、『太平記』作中最新(最終)記事の事件から10年ほどで現存本文が成立したとも考えられる。 一貫して南朝よりであるのは、南朝側の人物が書いたとも南朝方への鎮魂の意味があったとも推測されている。また、「ばさら」と呼ばれる当時の社会風潮や下剋上に対しても批判的に書かれている。
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