成立と中断とは? わかりやすく解説

成立と中断

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 02:45 UTC 版)

ルクセンブルクの歴史」の記事における「成立と中断」の解説

フランク王国の分裂とその衰退は、各地有力な人々地域で立ち上がることを可能にした。その中の一人にジークフロイト伯爵の名前が残っている。しかし、ジークフロイトは伯爵ながらも収める地域小さく土地分散していた。彼は神聖ローマ皇帝トリーア司教の間で立場入れ替えながら活動していたが、彼とその子孫領土の拡大狙っていた。 ルクセンブルクの名前は963年にジークフロイト伯爵トリーアの聖マクシミン修道院との間で交わされ契約書により初め現れることとなる。この契約土地交換に関するもので、ジークフロイトの所有地(約15ヘクタール)と聖マクシミン修道院所有する土地交換するものであったが、この地域現在のルクセンブルク市中心部形成することとなった。ジークフロイト伯爵の親であるウィゲリック (en) ・クネゴンデ夫妻は大アルデンヌ家始祖であり、後にヴェルダンバルルクセンブルク家の3家を出すこととなる。このジークフロイト伯爵は「アルデンヌ伯」を名乗り、「ルクセンブルク伯」を名乗ることはなく、孫のジゼルベール (en) が「ルクセンブルク城伯」を、さらに曾孫コンラッド1世初めて「ルクセンブルク伯爵」と名乗ったことにより、事実上ルクセンブルク形成されることとなった。ただし、現在ではジークフロイトが国の創設者であり、963年契約書により、ルクセンブルク形成されたと位置づけなされている。 さらにジークフロイトは娘のクネゴンデをバイエルン公ハインリヒ4世に嫁がせたが、ハインリヒ4世ハインリヒ2世として神聖ローマ皇帝即位するとジークフロイトの息子で後を継いだルクセンブルク伯アンリハインリヒ1世バイエルン公領を託され、その権力拡大図ったが、トリーア司祭手中に収めようとしたことがハインリヒ2世見咎められアンリ1世バイエルン公領を失うこととなったその後アンリ1世の後を継いだアンリハインリヒ2世が再びバイエルン公爵の地位得たが、アンリ2世早世したため、その併合成功しなかった。 その後ルクセンブルク伯らは領土拡大図っていたが、周辺には司教区存在しており、その領域拡大成功しなかった。しかし、8代目コンラッドコンラート2世死去したことにより男系途絶えることとなったが、皇帝ロタール2世命令により、ルクセンブルク伯領ナミュール伯家のアンリハインリヒ4世盲目伯が継承、ここにルクセンブルク・ナミュール家が成立した。さらにアンリ4世実家父親死去したことによりナミュール伯爵領を1139年継承、さらに1153年にはラ・ロッシュ (en) 、デュルビュイ伯爵領(現在はベルギー領)も受け継いだ。 しかしアンリ4世には結局男子生まれことなく晩年に娘エルムシンド (en) が生まれたのみであった老齢アンリ4世はこの領土を受け継がせるために、当時1歳であったエルムシンドをシャンパーニュ伯アンリ2世バルティボー1世 (en) らと婚約させた。1199年ディナン条約によりナミュールを失うこととなったが、ティボー結婚したエルムシンドはルクセンブルクラ・ロッシュデュルビュイ各地方確保には成功した。さらに1214年ティボー死去したことにより、エルムシンドはリンブルフ公爵家の跡継ぎヴァレラン (en) と再婚アルロン侯爵領を得ることとなったその後1226年にヴァレランが死去したことにより、エルムシンドは女伯爵となった。この時代それまで神聖ローマ帝国影響にあったルクセンブルク伯らは皇帝と距離を置き始めフランスの影響を受けることとなり、フランスから当主の妻を迎え、さらに公用語フランス語置き換えられた。そしてフランス国内の諸侯中央集権従順であったのに対しルクセンブルク伯独立性高めていた。さらにこの時代伯爵家紋章確定したが、この紋章には銀(白)、紺碧(青)の10本の横縞火を吐くライオン(赤)が描かれ、この3色は現在のルクセンブルクの国旗使用されることとなる。 エルムシンドの息子アンリハインリヒ5世金髪伯は領土の形を整え、後にルクセンブルク領となるフィアンデン伯を自らの傘下収めることに成功した。なお、このときルクセンブルク伯家は再度男系途絶えたため、この時代以降ヴァレランの出身であるリンブルク家にちなみルクセンブルク・リンブルク家と称されることとなる。アンリ5世息子アンリハインリヒ)6世はリンブルク公家の継承問題介入ブラバント公爵対決するまでに至ったが、1288年、ウォリンゲンの戦い (en) で敗死領土拡大野望は一旦、途絶えた本家アルデンヌ家バールヴェルダン両分家は没落していったが、ルクセンブルク徐々にその勢力拡大し神聖ローマ皇帝アンリハインリヒ)7世が選出されることとなったハインリヒ7世即位後、領土の拡大狙って息子ジャンヨハン)とボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカの間で婚約を結ばせたが、ヴァーツラフ3世死後王位継承を巡る争い起こった際、ジャンエリシュカ結婚させて軍勢ボヘミア派遣しジャンボヘミア王位に就けたハインリヒ7世皇帝選出されたことにより、それまでフランス寄りであったルクセンブルクドイツ引き寄せられることとなったハインリヒ7世死後、その息子ジャン若年あり、かルクセンブルク伯勢力が強力すぎるという理由から皇帝選出されなかったが、バイエルン公ルートヴィヒ支援して皇帝即位させた。 ジャン勢力拡大のためにリトアニアからイタリアまで駆け巡り子供たちをそのために利用したボヘミア統治暗礁に乗り上げていたが、ルクセンブルクでは成功収め1340年開設され定期商業市は現在も続いている。ジャンフランス王家との関係深めており、後のフランス王シャルル4世美貌王へ妹のマリーを、ジャン2世善良王へ娘ボンヌ嫁がせることに成功、さらに再婚相手にもブルボン公ルイ1世の娘ベアトリス選んだジャンルクセンブルク家によく見られ視力衰弱結果視力を失うこととなったが、百年戦争勃発するフランス王フィリップ6世元へ駆けつけた。息子シャルルカール4世として神聖ローマ皇帝選出され1346年クレシーの戦い戦死したが、ジャンはその功績ルクセンブルクにおける歴史上、最も輝かし英雄として語り継がれることとなる。 カール4世即位の後、帝国統治資金を得るためにルクセンブルク伯領を、買い戻せるという権利をつけた上で売り払ったが、これは父ジャン遺言異母弟ヴェンセラス(ヴェンツェル1世へ譲るということ無視するものであった。しかし1353年、ヴェンセラス1世ルクセンブルク領を譲ると、さらに翌年には伯爵位から公爵位へ昇格させることにより、その地位強化した。ヴェンセラス1世ジャン時代併合していたシニー伯領の残り半分併呑、この領域は「ルクセンブルク公爵領」の名前で総称されることとなった。そしてヴェンセラス1世ブラバント公家の跡継ぎであったジャンヌ結婚していたため、1355年にはブラバント公領をも受け継がれたが、ヴェンセラス1世とその妻ジャンヌらが子供残さず死去するブラバント公領は失われることとなった。ただし、ヴェンセラス1世ブラバント公爵受け継いだとき、ブラバント人々権利習慣尊重するとして「ブラバントへの歓喜入国」の誓約を結び、ブラバント人々から歓迎されている。 ヴェンセラス1世死後カール4世息子神聖ローマ皇帝でもあったヴェンツェル(ヴェンセラス)2世が後を継いだが、ヴェンツェル2世凡庸なおかつルクセンブルク資金を得るための道具として扱ったため、現在のルクセンブルクでの評価著しく厳しいものとなっている。ヴェンツェル2世2度しかルクセンブルク訪れておらず、さらに1388年資金を必要としていた彼は従兄モラヴィア辺境伯ジョスヨープスト)へ抵当としてルクセンブルク公国譲った。そのため、1388年から1461年までをルクセンブルクでは「抵当物時代」と呼ぶ。 1388年抵当とされたルクセンブルク領は転売連続であったジョスオルレアン公ルイブラバント公アントワーヌアントワーヌの妻で一族エリーザベト・フォン・ゲルリッツへとそれぞれ転売され、最終的に1441年ヘズディン協定により、ブルゴーニュフィリップ善良公の手渡ったフィリップにとってルクセンブルク各地散らばる領土接続する重要な土地であり、これらの領土纏め上げ勢力拡大してフランスドイツの間で新勢力形成しようとしていた。しかし、ルクセンブルク自体所有主権者であるエリーザベトの夫アルブレヒト死去したことにより、アルブレヒト2世の婿でザクセン選帝侯家のテューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世が、アルブレヒト2世死後生まれたラディスラウス主権者であると主張し国内ザクセン派、ブルゴーニュ派分かれて争うこととなった首都ルクセンブルク市ザクセン派に就いたが、1443年善良公はルクセンブルク占領した。しかし形式上ヴィルヘルムがその権利放棄した1461年まで、善良公がルクセンブルク公爵認められることはなかった。 一旦途絶えたルクセンブルク家は、アンリ5世時代次男ヴァレランがリニームース)の領地受け継ぎ分家リュクサンブール=リニー家立てており、これは名称を変えつつも長く受け継がれることとなる。

※この「成立と中断」の解説は、「ルクセンブルクの歴史」の解説の一部です。
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