成立と公刊の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 09:49 UTC 版)
「ドイツ・イデオロギー」の記事における「成立と公刊の歴史」の解説
1845年から1846年にかけて、マルクスとエンゲルスがベルギーのブリュッセルで共同執筆した。書き上げた原稿は出版社から出版を断られたが、執筆を通して自分たちの取り組むべき問題を浮き彫りにするという二人の目的は達せられたため、原稿はマルクスの家の屋根裏に放置された。マルクスは、後にこのことを振り返り、「気前よく原稿をネズミどもがかじって批判するがままにさせておいた」(マルクス『経済学批判』への序言)と自嘲した。この原稿は、マルクスの死後、エンゲルスに引き取られたものの、やはり放置され、エンゲルスもまた没した後にドイツ社会民主党へと渡った。ここで原稿が分散し、ごく一部の原稿を、同党の幹部であったエドゥアルト・ベルンシュタインが発表するにとどまった。 ロシア革命後、原稿の複写がソ連政府にわたり、モスクワ「マルクス=エンゲルス研究所」の機関誌としてダヴィト・リャザーノフが編集した "Marx - Engels Archiv" 第1巻1926年により、初めて草稿のほぼ全体が刊行された(リャザーノフ版)。 その後、ダヴィト・リャザーノフがソ連共産党による粛清をうけると、「マルクス=エンゲルス=レーニン研究所」(リャザーノフ粛清後、名称が変更される)は1932年アドラツキー編集による「マルクス=エンゲルス全集」("Marx / Engels historisch-kritische Gesamtausgabe" 、いわゆる旧MEGA)第1部第5巻でアドラツキー編集の新版を刊行した(アドラツキー版)。 リャザーノフ版は、文献学的検証がなかったものの、原稿をできるだけそのままに提供する形で刊行された。それに対して、アドラツキー版は、原稿をバラバラにして、自分たちの意図通りの順番に並べ替えるという恣意的な作業を行ったため、事実上偽書に等しい。この編集方針は、1960年代に批判を呼び、その後さまざまな編集方針のもとで、いくつものタイプの『ドイツ・イデオロギー』が刊行されることになり、 リャザーノフ版(1926年) アドラツキー版(1932年) バガトゥーリャ版 (ロシア語、1965年) ドイツ語新版(ブルシリンスキー監修、1966年) 花崎皋平訳・合同新書版(1966年) 新MEGA試行版(1972年) 廣松渉編訳・河出書房新社版(1974年) 服部文男監訳(渋谷正・橋本直樹訳)版(1996年) 渋谷正編訳版(1998年) 廣松渉編訳・小林昌人補訳・岩波文庫新版(2002年) などの諸版が存在する。なお草稿はマルクスによって執筆された序文 (Vorrede) を除く全てが、アムステルダム社会史国際研究所(Internationaal Instituut voor Sociale Geschiedenis 、略称IISG)に保管され、序文のみがモスクワ・現代史文書保管研究ロシアセンター(略称RC)に保管されている。
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