成立とオーストリア公国との同君連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 08:41 UTC 版)
「シュタイアーマルク公国」の記事における「成立とオーストリア公国との同君連合」の解説
この地には10世紀末からシュタイアーマルク辺境伯領が存在していたが、1180年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がバイエルン公ハインリヒ12世を処分するとともにオタカール家のシュタイアーマルク辺境伯オットカール4世を公に昇格させ、近隣のケルンテン公国やバイエルン公国と同等とした。こうしてオットカール4世は初代シュタイアーマルク公となったが、嗣子のないまま1192年に死去したため彼の代でオタカール家は断絶した。1186年に結ばれたゲオルゲンベルク協定でオットカール4世はバーベンベルク家のオーストリア公レオポルト5世を後継者に定め、以降シュタイアーマルク公国はオーストリア公国と同君連合の形をとることとなった。
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