成立と変遷
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文治5年(1189年)大江広元が地頭に補任され、成島荘・屋代荘・北条荘に加え公領を含めた置賜郡の地頭となる。置賜郡は広元の次男長井時広に相続され、鎌倉時代中期に長井荘の呼び名が初めて見られる。 南北朝時代の元中2年/至徳2年(1385年)置賜郡を治めた長井氏が伊達氏の侵攻により滅ぶと、置賜郡一帯が長井荘と呼ばれるようになる。その一方で段銭帳では上長井荘・下長井荘と分割して見られる。なお、伊達氏の領国化により成島荘が上長井荘へと変化している。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いを目前にした徳川家康は伊達政宗に、苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井の旧領7か所の回復を約束した、いわゆる百万石のお墨付を与えた。この判物に添えられた知行目録によれば長井は7か所のうち最大の石高17万7,933石分を占めていた(『山形県史15上』伊達家文書)。この時の領域は置賜郡のほぼ全てを示している。
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成立と変遷
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794年に造営された平安京の中央には、南北に幅28丈(約85メートル)の朱雀大路が位置し、南端には都の正門である羅城門、北端には大内裏の正門である朱雀門につながっていた。また、東西南北には、17丈(約50メートル)から8丈(約24メートル)まで5種類の幅を持つ大路、幅4丈(約12メートル)の小路 により、40丈四方の街区「町(まち)」に区画された。 その範囲は、北端が現在の一条通、南端が九条通、東端が寺町通にあたる。なお、西端は、概ね現在の葛野大路通付近にあたるが、都の西半分である右京が寂れたこともあり、街路としては継承されている訳ではない。 10世紀初期の『延喜式』においては、平安京内の縦横に設けられた街路の幅員について詳細に示されている。しかしながら、固有の街路名は「朱雀大路」が見えるだけであり、外周を「東極大路」、「南極大路」などと示すのみである。 街路(大路小路)が固有の名称を持つ時期は定かではなく、自然発生的に生じたと考えられるが、10世紀後半には、町尻小路・町口小路、室町小路、油小路、具足小路(錦小路)、綾小路、塩小路などの名称が用いられ、大路小路が固有の名前で呼ばれるようになった。 平安時代後期になると、都は左京中心になるとともに、都市域が一条を越えて北へ広がり、街路も北進した。また、白河殿の設置など二条大路を介して鴨川東岸へも広がった。 中世以降、街路の幅は狭小化した。これは、街路を中心とした向き合う部分がコミュニティを構成する両側町の成立とも大いに関係する。 戦国時代末期には、現在使われる「通(とおり)」という表現で呼ばれるようになり、またこの戦国時代から織豊期に掛けての時期に、現在にも伝わる新しい名称が多く生まれ、近世に掛けて定着した。 また、この時期、京都の町割りに大きな変更を行ったのが、豊臣秀吉である。御土居を築造し、寺町通・室町通間及び堀川通以西で半町ごとに新しい街路を南北に通す、天正の地割を行った。 江戸時代においては、大きな変化はなかったものの、河原町通・木屋町通など鴨川西岸、鴨東と呼ばれる鴨川東岸の開発が進んだ。 明治時代から大正時代に行われた三大事業によって、烏丸通、千本通・大宮通、東大路通、丸太町通、四条通、七条通の拡築と市電の敷設が行われた。また、その後の都市計画事業として北大路通・西大路通・九条通・東大路通の市内外周道路のほか河原町通などの主要道路の拡築が行われた。市街地周辺部の街路も土地区画整理事業とともに、この時期から整備されていった。 第二次世界大戦時には防火を目的に強制的に建物疎開が行われた。高辻通、智恵光院通等において消防道路の敷設のため、また御池通・五条通・堀川通などに沿って大幅な防火帯の形成のために建物疎開が行われ、戦後の道路拡幅に用いられることになった。
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