企画の成立と変遷
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「与謝野晶子訳源氏物語」の記事における「企画の成立と変遷」の解説
金尾種次郎によれば、この与謝野晶子による現代語訳源氏物語の企画は金尾種次郎の側から持ちかけたものであり、「上巻発行の2、3年前」に金尾種次郎が内田魯庵宅を訪れた際に突然決まったものである。この間、1911年(明治44年)2月に四女宇智子、1913年(大正2年)4月に四男アウキュスト(後の昱)という二人の子を出産しており、1912年(明治45年)5月には前年11月にパリへ赴いた夫寛を追って洋行し、同年10月帰国するという状況にあったため、中巻は晶子欧州滞在中の1912年(明治45年)6月の刊行となった。
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企画の成立と変遷
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1932年(昭和7年)この翻訳を思い立ったとされる。その理由としては前の翻訳「新訳源氏物語」が抄訳であることなど不十分であると思われたことなどがあげられている。唯一与謝野晶子の生前に刊行され、与謝野晶子自身がその編集に関与した『与謝野晶子全集』である改造社版『与謝野晶子全集』全13巻が1933年(昭和8年)9月に刊行が開始され、1934年(昭和9年)8月に完結した。が、「新新訳源氏物語」は当初この全集の増巻として刊行することを考えていたらしく、1934年(昭和9年)12月発行の『冬柏』第5巻第1号において同全集の増巻として「新新訳源氏物語」の刊行が予告されている。 1935年(昭和10年)に入って与謝野寛が病に倒れた後も晶子は病床の夫の側で看病の傍ら書き進められていたものの、1935年(昭和10年)3月26日に夫与謝野鉄幹が62歳で死去してしまったことにより、このとき橋姫まで書き上げ、若菜まで清書を完了していたとされる新々訳の原稿は約2年間放置されることになった。1936年(昭和11年)になって「新訳源氏物語」を刊行した金尾文淵堂と「新新訳源氏物語」の刊行について話をしたことにより、1937年(昭和12年)秋に執筆を再開した。このようにして1938年(昭和13年)10月になって第1巻刊行にたどり着いた。その後1939年(昭和14年)7月6日に脱稿。1939年(昭和14年)9月、第6巻(最終巻)が刊行された。 1939年(昭和14年)10月には完結を記念した完成祝賀会が上野精養軒において開催されたりしたものの、同時期に刊行された谷崎潤一郎訳源氏物語が歴史ある大出版社である中央公論社から出版され多くのメディアで大々的な宣伝を繰り広げたのに対して、金尾による個人事業的性格の強い「金尾文淵堂」から出版された与謝野源氏は派手な宣伝活動を行うことが出来ず朝日新聞と毎日新聞に1回ずつ小さな広告を出しただけであった。このような状況の下で与謝野家の子供たちは谷崎源氏の派手な広告が晶子の目に触れることを避けようとしていた思い出を語っている。このような宣伝活動の少なさからせっかくの改訳が単なる新訳の再版であると思われることもしばしばであったという。その結果おそらく一千部程度しか売れなかったであろうとされ、晶子自身、小林天眠への手紙の中で「死後にでも売れ申すべしと期し居り候」と書き送っている、
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